米国で3カ月試合をして、残りは日本の試合に出る。今から見れば、とりたてて厳しいスケジュールではない。だが、当時のゴルフ場の事情が、樋口久子(61=富士通)を押しつぶしそうになったことがある。

米国のグリーンは滑らかなベント芝、それに引き換え日本は芽の強い高麗芝が主流だった。毎年、その両方のグリーンで戦い続けているうちに、パットが狂ってしまったのだ。

樋口「病気ですよね。イップス。『8』の字を描くようになって。アメリカの試合で3パットを3~4回やった。『チャコ、パットが悪ければ選手寿命終わりだよ』と言われてコーチを紹介してもらった。3日間だったけれど、クラブも打ち方も変えて、やっと立ち直れた。1975年のことです」

プロのトミー・ジェイコブスに1日100ドルの報酬で修正してもらい、自信は回復した。それどころか、この計300ドルの投資は、やがて樋口の元に想像をはるかに超える幸運を舞い降りさせたのだ。いや、日本の女子ゴルフ界そのものと言い換えても構わないかもしれない。

77年もまた、いつものように佐々木マサ子(63)とともに米国を転戦した。全米女子プロ選手権の前週は、ニューヨークで行われたガールトーク・クラシック。最終日最終組の樋口は重圧で80をたたき、順位を下げた。「自分でプレッシャーをかけちゃった」せいで最終的には27位の「平凡な成績」で終わった。もはや優勝争いを演じるだけでは「平凡な結果」でしかなかったのだろう。

樋口「佐々木さんは、その試合は予選落ちでね。もう、早く全米女子プロの会場へ行きたくて仕方がない。それで、日曜に試合が終わってすぐに旅立った。深夜の1時ごろにベイツリー(サウスカロライナ州)へ着いた。佐々木さんがナイトテーブルにぶつかって額を切って、翌日は病院へ行ったり、てんてこ舞いでした」

36ホールのゴルフ場だったので、プロアマを2日間回って、やっと試合で使用する18ホールを回り切れた。それ以外の練習ラウンドは、ハーフを回っただけだったという。

初めて米国へ行く前は「選手はどんな服装で試合をしているのか?」ということさえ分からなかった。「私たちはいつもズボン姿で試合をしていたでしょう。アメリカはスカートとかキュロット。自分でオーダーして作って行ったんですよ」。米ツアーに飛び込んでから、その時すでに8年の歳月が流れていた。

樋口「そういえば最初はカクテルドレスも持っていった。でも、前夜祭などのパーティーでは選手は意外に気楽な装いだったので、ほとんど着なかった。話は変わりますが、トーナメントはスポンサーの経済状況などに左右される一面があるでしょう。でも、公式戦は違う。恒久的な試合ですから。公式戦の重みについては、その時点で十分に理解はできていました」

表面的にはドタバタで迎えた77年の全米女子プロ選手権だったが、その裏で「世界のチャコ」として飛び立つ準備は万端だったのかもしれない。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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