1964年東京五輪のバレーボール女子で金メダルを獲得し「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表メンバーだった丸山サタ(まるやま・さた=旧姓磯辺=いそべ)さんが12月18日、死去した。東京五輪ではレギュラーの中で最年少。全試合に出場し、最終戦のソ連戦では日本選手最多の6得点を挙げ、金メダル獲得に大きく貢献した。2020年東京五輪の観戦を楽しみにしていたが、かなわなかった。【構成=高橋悟史】

●伸びた背筋にがっちりとした腰回り

 取材の約束は、2015年9月4日だった。「御堂筋線の長居駅を出たあたりで」。1964年当時の資料を読み、下準備はしていた。大松監督の素顔を改めて聞くためだった。

 ただ、不安だった。自分に、70歳の磯辺さんが本当に分かるのだろうか。念のため、約束の15分前に到着し見渡す。自分の中でイメージした70歳のおばあちゃんの姿はすぐに覆された。伸びた背筋にがっちりとした腰回り。写真で見た当時の面影が残る、大柄な女性におばあちゃんと思っていた自分の感覚が恥ずかしくなった。

 13年から14年にかけて腰を痛め手術。2週間ほど寝たままとなった。「筋力が落ちてほんまに寝たきりになると思った。リハビリで10メートルから歩き始めて、子供に『今日は10メートル歩けてん』と言ったら『なんやねん10メートルだけって』と言われてなにくそと思って歩けた」。取材当日もさっそうと自転車に乗るほど、回復していた。バレーでも普段の生活でも負けず嫌いが顔をのぞかせた。

●大松監督は「スパルタとは違った」

 その気持ちが培われた故大松博文監督との生活も「スパルタとは違った」と伝わるイメージを否定した。「私は6人の中で一番遅くに入った。最初のうちは5人でやったほうがマシって言われましたよ。でも大松先生が選んでくれたんやから、絶対にやってやるって思ってました」。いつまで経っても最年少。仲間が集まれば「イソ!」と呼ばれた。当時、いち早く気づくことを身につけたため、近所の集まりでも気が回るようになった。大松監督はもちろん、先輩ばかりだったチームメートに文句は言えなかった。「寝言では言うてたみたい。『そんなん言わんでもいいでしょ』とか『やってますやん、やってますやん』とかね。普段言えん分かな」と笑って振り返った。

 現役時代、盲腸の手術で1週間入院した時、見舞いに来た主将の河西昌枝さん(故人)から「いつまでも寝ててええね」と言われた。「お見舞いなのか、嫌み言いに来たのか」と笑ったが「早く戻ってこいって意味なんです。これもとらえようによってはいじめです。でもそれに立ち向かう勇気が必要なんです」とメッセージを込めた。

 大松監督が間を取り持ったご主人とは運命的だった。日紡を退職する時、社内の人がアタックを打っている写真をくれた。その写真の観客席には、ご主人が写ってた。ご主人が家で飼っていた犬の名前が「イソ」だった。いつも通る道に選挙事務所兼洋品店があった。そこに出てた名前が「元大阪市長の中馬さんで、珍しい名字やなと思っていたんです。そしたらその事務所兼洋品店は主人の実家だったんです」と懐かしんだ。「大松先生の奥さんには、いい人やし結婚したらと勧められたし、酒もたばこもやらない人だった。でも初めて会った時は、たまたま体調が悪くて酒を飲んでないだけだったらしい」。そう話のオチまでつけてくれた。幼少時に両親を亡くしていたため、大松監督夫妻が両親の席に座ったという。

●データバレーのタブレットに苦言も

 第一線から退いた後も、ママさんバレーの選手として現役は続けていた。「丸山(現姓)さん、人がいないとこばっかりアタック打つね」と言われれば「人がいないところに打つのがアタッカーやで」と返した。「現役時代よりレベルは落ちたけど、相手チームの配置を見る目っていうのは変わらんね」と笑った。「あのタブレット何なん? 相手がどこに打つとかのデータなんてやってりゃ分かるんちゃうの?」と苦言も忘れなかった。

 取材した内容は、2015年10月7日付の日刊スポーツ(東日本版)に掲載した。その見出しは、東洋の魔女に魔法をかけた「鬼」の大松は仏だった、とある。新聞が届いた時に電話があった。「こんな大きくありがとう」。訃報を聞いた時、その声を思い出した。あれからわずか14カ月後に、この世を去るとは思わなかった。もっと聞いておけばと後悔する反面、伝説とも言える人を取材出来たことを幸運に思う。あの手の大きさが、そして目力が今となっては懐かしい。

 ◆磯辺サタ(いそべ・さた)現姓丸山 1944年(昭19)12月18日、千葉県生まれ。中学卒業後日紡貝塚に入社。1年後に大阪・四天王寺高校に入学。卒業後再び日紡に入社し、1964年東京五輪で最年少メンバーとして出場し金メダルを獲得。長男繁守さんは背泳ぎで88年ソウル五輪に出場した。16年12月18日に死去。