「記者が振り返るワールドカップ(W杯)の歴史」の第2弾は、日本代表の苦難に触れる。95年6月4日、第3回W杯南アフリカ大会1次リーグ(L)第3戦で日本はニュージーランドに17-145と大敗を喫した。最多失点など、現在でも残るW杯史上のワースト記録を羅列。小薮修監督の下、SO平尾誠二らスター選手を集めながら1次L2連敗後、初代王者オールブラックスから日本ラグビー界への衝撃的なダメ押しだった。南アの司法首都ブルームフォンテーンでの惨敗は「悲劇」「悪夢」というより「国辱」でもあった。

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キックオフから90秒でトライを奪われた。日本は敵陣に入ろうとキックをしてはカウンター攻撃を受け、トライを重ねられた。前半15分で0-35。タックルは空を切る。オールブラックスは容赦しない。前半終了で3-84。後半10分に10-103となると、スタンドでは「100点ウエーブ」が始まる。梶原の2トライは焼け石に水。スタンドから中身が残っている缶ビール、紙コップが飛ぶ。「これがW杯? 金返せ」の意味だ。「国辱」と映った。観客が去り始め、「もう時間の無駄」とばかりにロスタイムはない。翌日から日本人は「145(失点)」などと、イジられた。

ニュージーランドに大敗を喫したことを報じる、1995年6月5日付日刊スポーツ東京版
ニュージーランドに大敗を喫したことを報じる、1995年6月5日付日刊スポーツ東京版

選手も関係者も「勝てないまでも、これほど大差がつくとは…」。相手は既に1次リーグ突破を決め、エースWTBロムーら主軸不在。だが、「2軍」だったからこそ、手を抜かなかったのだ。次の出場機会を求めてアピールし続けた。日本でもプレー、その後に指導もしたシューラーは「次にオールブラックスのジャージーを着られるのはいつなのか、分からなかったから」と振り返っている。

日本側の問題は? 小薮ジャパンの一員は「結局、勝つ気がなかった」とシンプルに総括した。戦術、体力、分析、準備、心構え、意思疎通…「すべてで足りなかった」と。同年3月に神戸製鋼7連覇のヒーロー平尾が代表復帰したことで、首脳陣らチーム内外に安堵(あんど)感が広がった。それが緩みに転じたという見方は否めない。

最も印象的だったのはW杯でのスタッフを含むチーム内の温度差だった。厳しく管理される近年と違い、グラウンドを離れれば「自己管理」の時代。南アでは練習が終われば、事実上の自由時間だ。買い物も、部屋飲みも、ゴルフもあり。気晴らしにカジノに出向く者もいた。もちろん黙々とストイックに戦いに備える者もいた。違和感の中、チーム内の摩擦を避けるため、目をつぶる者もいた。

南アで始まったことではなかった。国内合宿でも「自己管理」だった。当時のラグビー界はアマチュアだ。都内合宿の練習場に筋トレ設備はなく、所属チームの施設に頼るしかない。昼食は用意されず、選手は各自でサラリーマンに交じって牛丼、ラーメン、定食などで腹を満たす。栄養学とは無縁だった。

いわゆる「おおらかな」時代だった。

一方でニュージーランドなど強豪国は、その後のオープン化(プロ容認)を見込んで“セミプロ化”しており、伝統の上にすべてで緻密な準備をしていた。17-145。敗因は1つではないが、この歴史的大敗を機に日本のラグビー人気は下降線をたどる。国民的注目を取り戻すのに20年を要することになった。【岡田美奈】

<日本の過去のW杯>

◆第3回(95年、南アフリカ)アパルトヘイト(人種隔離)政策の影響により除名されていた南アフリカが初出場。自国開催で優勝を果たした。日本はウェールズ、アイルランド、ニュージーランドと3連敗。小薮修監督、薫田真広主将。大会2カ月前にSO平尾誠二が代表に復帰した。

【戦績】日本10-57ウェールズ、日本28-50アイルランド、日本17-145NZ

◆第4回(99年、ウェールズなど)参加チームが16から20に拡大。日本は平尾誠二監督のもと、マコーミックが初の外国出身主将を務めた。元ニュージーランド代表のNO8ジョセフ、SHバショップも代表入りさせたが、サモア、ウェールズ、アルゼンチンに3連敗。オーストラリアが2度目の優勝を果たした。

【戦績】日本9-43サモア、日本15-64ウェールズ、日本12-33アルゼンチン

1999年10月4日付日刊スポーツ東京版
1999年10月4日付日刊スポーツ東京版

◆第5回(03年、オーストラリア)日本は向井昭吾監督、箕内拓郎主将の体制で臨む。初戦のスコットランド戦、続くフィジー戦の健闘に「ブレイブ・ブロッサムズ」と評価を受けるも、フランス、米国と結果的には4連敗。WTB大畑、FB松田ら。イングランドが北半球で初の優勝。

【戦績】日本11-32スコットランド、日本29-51フランス、日本13-41フィジー、日本26-39アメリカ

2003年10月13日付日刊スポーツ東京版
2003年10月13日付日刊スポーツ東京版