「記者が振り返るW杯の歴史」の第4弾は、15年イングランド大会。ラグビー界を超え、スポーツ界に衝撃を与えたジャイアントキリングが起きた。W杯で24年間も勝ちがなかった日本代表が、優勝候補の南アフリカ代表に34-32で逆転勝ちを収めた。語り継がれる場面となったのは“最後のスクラム”。同点のチャンスを捨て、長く不利とされてきたフィジカル勝負をあえて選んだ。W杯で初めて4戦で3勝しながら1次リーグで敗退したチームに。敬意を込めて「大会史上最強の敗者」と呼ばれた。

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3つ選択肢があった。フランカーのリーチ主将が静かに、フッカー木津に歩み寄る。両足はつっている。それでも表情を変えず、両手を腰に当てた。

「スクラム、いける?」

木津は答えた。

「スクラム! スクラムいこ!」

後半40分、29-32。パワーでは世界一とうたわれた南アフリカに、ラストプレーで真っ向勝負をかけた。先発FWの平均体重だけを見ても、日本の109キロに対する南アは約117キロ。ブライトン・コミュニティ・スタジアムは、満員2万2920人の観衆のおののくようなジャパンコールで埋め尽くされた。

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南アは確実に日本を見下していた。スタメンの15人からは、明らかに主力が何人も抜けていた。3度目の優勝への長い道のりを見据えて1次リーグをチーム作りの場にもする国と、かつてジンバブエに1度勝っただけの国。南アからすれば当然の采配だった。前半を終えて10-12という接戦を演じてなお、日本が勝つ予感はなかった。

ただ、日本には周到な準備があった。9月の開幕を見据えて4月から異例の長期合宿を組み、朝5時からのウエートトレーニングを含む1日3部練習を繰り返した。タックルと起き上がりを繰り返すつらいボール争奪戦の練習には「ビート・ザ・ボクス(ボクスは南アの愛称)」と名をつけ、真夏でも続けた。海外出身選手がいても日本の強みである協調性が生まれるよう、全員が君が代を歌えるようにした。試合前には各自が同じポジションの相手選手を分析し、ホワイトボードに書き寄せた。

何度でもタックルしては起き上がり、食らいついて迎えた後半40分。ジョーンズHCの指示は同点で勝ち点1を得るだめのペナルティーゴールだった。対して、リーチ主将が選んだのは“白か黒か”のスクラムだった。この決断を後押ししたのが木津だった。

ラインアウトは選ばなかった。投げ手である木津にしかない緊張があった。

「もし(ラインアウトで)投げてまっすぐいかんと反則なんてとられたら、日本に帰れないなと。個人的にそんな気持ちもあった。それで『こら、あかん』と。いや、緊張しますよ、あれはほんまに」。

終わった後だからこそ周囲を笑わせるように話したが、経験のない重圧だった。

控えの選手は、試合が始まったら途中出場のための準備でもボールに触れないルールだった。その日の自身の感触を十分に把握できているか、疑問が頭をよぎった。もしも自分の1投が数センチでもそれれば、すべてが水の泡になる。押しつぶされそうなほどのプレッシャーを「スクラムいこ!」の大声に押し込めた。

南アの土俵で勝負するというリスクの選択には、ぎりぎりの精神状態で命運を託された選手の揺れ動く感情があった。ジョーンズHCの指示を超えた「選手の自立性」が称賛された決断。背景にあるのは、決して前向きな気持ちだけではなかった。不安定な要素が絡み合い、それが紙一重で勝利をたぐり寄せることもある。それもまた、紛れもない事実だ。それでも、主将の決心を後押しする「スクラムいこう」の声の主は木津でなければいけなかった。木津は、勝負師の性を持つ選手だった。

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小学生時代から大柄で、中学まで打ち込んだ相撲では無敵の存在だった。育った東大阪は当時、いわゆるチンピラが多い街だった。木津の存在を聞きつけた他校の悪童たちが「木津ってのはどいつだ」と学校までバイクでおしかけることも多々あった。

相撲に集中していた木津はうんざりしていた。焦る教師の制止を「いいよ、俺がいけばいいんだろ」と気にもとめず、校門まで1人出て行くと「ここでは迷惑だから、放課後にしてくれや。必ず行くから」と諭した。

中学生で身長180センチ、筋骨隆々。初めて対面した悪童たちがひるむ表情を幾度となく見てきた。「約束の場所に行って相手がいたことは1度もなかった」。拳を使わずとも、顔つきと振る舞いで“勝つ瞬間”を感じ取る力が自然とついていた。

あの瞬間。木津には、スクラム勝負を仕掛けられた相手の表情が引きつるのが分かった。手応えがあったのは事実。そこまで10度あったスクラムで、8本あった日本ボールの確保率は100%だった。極限の緊張状態でそんなデータは頭にはない。不安があるのは当然。それでも腹を決めた。研ぎ澄まされた感覚に、突き動かされた。「仮に同点で終わっても、日本の歴史は変わらない。勝つか負けるかやろ、と」。

リーチ主将はかつてこう言った。「ラグビーは、ルールのあるピッチ上のケンカ」。2人は東海大時代からの旧知の友。ピッチで“殴り合い”を始める前に勝利への道を感じ取った男と、その言葉を最後の決め手とする勇気を持った男が、南アフリカを打ち破る力をジャパンにもたらした。

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敗退が決まった翌日。穏やかな日差しの中、宿舎の中庭に多くの選手が集まっていた。長期合宿のスタートから指揮官に禁じれていた酒が解禁され、テーブルにはビールが並んだ。ある選手は青く腫れ上がった人さし指でジョッキをつかみ、掲げた。アイシングを膝上の大きなアザに当て、歩きづらい選手も。そこにグラスを渡す選手のサンダルからのぞく足の指は、度重なるモールの練習で爪がぼろぼろに割れていた。解散するW杯チームが交わした、最初で最後の杯。時間、体…。すべてをささげた者たちによって、日本代表は誇りを手にした。【岡崎悠利】