道は分かれていた。青森の三沢一中で3年になった太田は、どの高校に進むか、迷っていた。

第2次世界大戦のさなか、三沢には日本海軍の航空基地があった。戦後は米空軍の基地になり、敷地内ではリトルリーグの試合も行われた。その環境下で太田は小学生のころに野球を始める。早くから硬式野球も経験した。三沢一中でも授業が終わると野球場に走った。ただ、中学卒業を控え、この先も長く野球を続けていくか、考える時期に来ていた。

太田 昔は八戸とか青森とか弘前といった公立の進学校が甲子園に出ていた。八戸は進学校ですし、甲子園に何回か出てるし、甲子園に一番近いところは八戸かなと。野球やり始めた小さいころはプロを目指してやってたけど、本格的に野球始めて(以降は)プロなんて頭になかったですね。僕自身は学力はそこそこ。中学の担任の先生からは弘前を薦められていました。

三沢高校は、太田が通う三沢一中から道路1本隔てた場所にあった。

太田 いつもうちの中学の方が遅くまで練習してたから。中学校より早く練習が終わる。そりゃ強くならんわな、と。まさかそこに入るとは思わんわね。

だが悩んだ末に、三沢進学を決断する。

太田 うちの両親も病気がちやったし、経済的にもいろんなことがあって、三沢に行こうかということになったんです。

父暁(さとる)と始めた野球だった。太田の母タマラは白系ロシア人。その両親から太田は、のちに「プリンス」と呼ばれる美貌を受け継いだ。だが幼いころは、その容貌ゆえに周囲の心ない言葉に傷ついた。

太田 今でこそハーフというと騒がれたりするけど、あのころはね。小学校に入ったときはハーフって言葉がなかったから、アイノコとかいじめられた時期もあった。そういうのもあっておやじは野球をやらせたかったんじゃないかな。小学校に入る前から、仕事を終えて家に帰ってきたらいつもキャッチボールしたりしていたから。

ひとりぼっちにはさせない。その思いを、父は息子への1球1球に込めた。野球を通じて、息子を取り巻く環境を変えようとした。

太田 野球を始めてチームに入ってからは、そういういじめはなくなっていった。仲間が出来たから。

菊池弘義、八重沢憲一ら、中学、高校と同じ道を歩む仲間と出会ったのがそのころだった。

菊池 時間さえあれば、ぼくらは野球をやっていたんです。太田とは幼いころからずっと一緒。兄が違う高校で野球をしていてそこは甲子園に近いと感じられるような学校でしたが、自分は気心の知れた仲間と3年間野球をやる環境を選びました。

69年夏の甲子園で「5番・一塁」で活躍し、その後は三沢市役所勤務のかたわら、母校の監督を務めた菊池は当時を懐かしむ。

太田 仲間と3年間楽しく野球しようかという結論に達したんだけど、それで人生が変わることになるんだから、分からないよね。選んだ時点では、このチームでよっしゃ、甲子園行くぞってそんな夢すら見なかったんですよ。

三沢一中からは菊池、八重沢ら、ライバルの三沢五中からは桃井久男、小比類巻英秋らが三沢に進学した。のちに球史に残る夏を戦う仲間と太田は巡り合ったのだ。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)