<アナタと選んだ史上最高物語(1)美男子編>

 90回目の夏がやって来て、熱戦の幕が開いた。1世紀近い球史に刻み込まれたさまざまな「史上最高…」を、6月に読者の皆さんに問いかけた。主としてインターネットによっていただいた「回答」は、なるほどというものばかり。高校野球ファンの最大公約数は示してもらえた、と思う。もちろん、そんな意見を参考にさせていただきながら、伝説「アナタと選んだ史上最高物語」を展開する。筆者は、作新学院・江川卓が怪物ぶりを発揮した1973年夏から、KKコンビのPL学園無敵時代まで、甲子園で高校野球を取材した。その体験が「偏見と独断」を招き過ぎていたら、お許しいただきたい。

 ◆史上最高の美男子ベスト10

 <1>荒木大輔(早稲田実)<2>ダルビッシュ有(東北)<3>斎藤佑樹(早稲田実)<4>太田幸司(三沢)<5>坂本佳一(東邦)<6>島本講平(箕島)<7>定岡正二(鹿児島実)<8>原辰徳(東海大相模)<9>大野健介(静岡商)<10>元木大介(上宮)【男が見とれた島本の目鼻立ち】

 汗だくになって、甲子園のアルプス席にいたのは35年前のことだ。1973年は作新学院の怪物江川でもちきりの夏。先輩の江川番記者が「大変だぜ、江川のオヤジさんに明日の切符200枚頼まれちゃってさ」などと、格好良くうそぶくのを横目に毎試合、アルプス席へ出向いて応援団から雑感を拾うのが、新米の仕事であった。

 もっとも、もう一つの「担当」も付いた。わがニッカンに「広島地方版」が発足した直後で広島代表の広島商担当。もちろん先輩たちは近畿勢の記事を書き、大阪版に大きく掲載される。私は地方専門。大阪版にはカケラも載らない。ところが、この広島商が優勝してしまったのだ。迫田監督、しっかり者の金光主将、エースは左腕佃でキャッチャーは元気者の達川。4番の楠原は人柄抜群だった。

 アルプスに優勝校の取材。新米記者はてんてこ舞いで、どこかで手抜きは出来ないか、と考える。「追っかけ」の女子学生がワンサカいた時代だ。その子たちに尋ねたらすぐに書けるだろうと、タカをくくって「顔で選んだベスト9なんて、どうです?」と現場デスクに売り込んだ。それを書いていれば、その間アルプス取材は誰かが代わってくれるはずだ。だが、一瞬でその企画はボツになった。「そらアカンわ。田名部に怒られるぞ」(高野連の田名部参事はその頃から実力者だったのだ。デスクが呼び捨てにしたのは、彼が同じ大学の先輩だったからである)。

 だから、ある意味「史上最高の美男子」探しは、35年来の夢だったのだ!

 「全員

 一生懸命の選手たちは輝いています!」という声に「そうだ、そうだ」と思いつつ、心のどこかで「やっぱりかなり差があるで」と思ってしまう…。

 荒木大輔、ダルビッシュ有、斎藤佑樹ときて4番目に太田幸司。往時の熱狂度からすれば、当然「殿下」の太田が際立っていたのだが、人々の印象は時の流れとともに風化する。そこで私は独断ながら史上最高の男前は島本講平(箕島)に尽きる、と断言したい。万博があった70年春、北陽との決勝で自らさよならヒットを放って優勝投手になり、夏は2回戦で岐阜短大付高に敗れ去った。

 私は73年からプロ野球は南海ホークス担当だった。監督兼4番兼捕手の野村克也(現楽天監督)がスーパースター。しかし、外野へ転向した島本は女性人気においては、誰の追随も許さなかった。中もず球場で、秀鷹寮の応接間で幾度も取材した。シビレルほどに整った目鼻立ち。日焼けして精悍(せいかん)さがなお増していて、男の私が見とれるほどであった。近鉄に移籍して花開き、通算454安打、60本塁打。

 弟・啓次郎が簑島3年の時、ドラフト当日に新築された和歌山の実家を訪ねた。子どもたちを語るお父さんの顔が誇らしげで微笑ましかった。家を案内してもらったら、2階にナント大鏡がある部屋!

 甲子園史上最高の男前は自らの容姿をその鏡で確認…なんてわけではない。兄弟の素振り部屋であった。(つづく=敬称略)【編集委員=井関

 真】