【前回】12年、現在ロッテで2軍投手コーチを務める小谷正勝氏(71)の自宅に1年間通い、投球について学んだ。深い知識はもちろんだが、指導を受けた投手が着実に伸びていくのには別の理由がある。

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 小谷コーチと出会ったのは巨人担当1年目。業界用語でいう「小僧」として、主に若い選手を取材していた06年だった。2軍担当が小谷コーチだった。

 キャンプ中、2軍の宿舎ロビーでは毎朝6時30分から体重測定が行われていた。いわゆる「ジャイアンツタイム」にのっとって、選手たちは予定より早い6時ごろからロビーに下りてくる。

 一番乗りはいつも小谷コーチで、エレベーターの開閉が見えるソファに腰掛けていた。「起床が早いから」とだけ言って、ホットコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。向かいに座っても顔が隠れ、1面とテレビ欄しか見えない。

 いつから座ってるんだろうと早起きしてみると、遅くとも5時30分には姿を見せていた。時間を合わせて足を運び、あいさつして向かいに座ってみるものの威厳があり、声掛けできる雰囲気でもない。2月の宮崎は日の出が遅い。寒くて暗いロビーで、朝っぱらから妙な空間が出来上がった。

 10日ほどたって、何をしているのか分かった。新聞をめくるスピードがやけにゆっくりで、読んでいる感じでもない気がする。エレベーターが開く度に新聞が少し下がり、扉に鋭い目を向けている。1人1人、朝一番の表情を洞察していた。

 若い選手の立場で見れば、毎朝同じ場所で朝刊を読んでいるコーチにしか見えない。最初の会話をよく覚えている。「新人の投手は、最低でも3カ月を観察期間とする。能力を持ってプロに入ってきた。性格を含め、個性を把握するのには時間がかかる。親御さんから預かった以上、責任がある」。

 私も洞察されていたのだろう。ある日「おい、あんちゃん」と言われた。

 「昨日の日刊スポーツに『ブルペンで捕手を座らせて50球』という記述があったが、ピッチャー本人が『座らせて』と言ったのか」

 「いいえ」

 「あんちゃんが書いたのか。もしピッチャーが言ったのなら、注意しなくてはいけない。若い選手にとっては誰もが先輩。勘違いされたら困るからな」

 「…」

 世間の常識が正しいとは限らない。自分の固定観念も。人の側に立って考え、自分の考えとの間を何回も往復させる習慣をつけることで、複眼の思考を持つことができる。

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 12年に戻る。濃厚な1年間は、最終的に「小谷の投球指導論」という書籍になる。あとがきを転載する。

 (中略)大洋ホエールズでコーチ業を始めたのは昭和54年だった。頭ごなしに叱ったり、今思えば正しいのかも分からない考えを押し付けたり。激流の川の中におんぼろのボートを出し、いくらカイをこいでも進まないような日々だった。社会人なら誰でも経験があるであろう、ガムシャラな時代が私にもあった。

 ジャイアンツでの7年間は「空気のような存在であれ」と言い聞かせていた。空気は水と置き換えてもいいだろう。無色透明で目立たぬよう、表に出ないよう、意識して努めていた。ただ選手が悩み、ふっと足を止めたとき、いなくてはならない存在でありたい。そんな役回りを目標点として定めていた。

 空気と水という境地に導いてくれたのは、触れ合ってきた選手たちだった。記してきた投手はもちろん、1軍の晴れ舞台に送り込めなかった投手たちから教えてもらった事は非常に多い。出会った縁にお礼を言いたい。

 「この子が世に出るためにどうすればいいかを、とことん考えること」と、コーチ業を定義している。選手がいるから指導者がいる。この順番を決して間違えてはいけない。動作の原理を理解して、正しい順番で投げる。原理から逸脱していなければ、短所には目をつむり、長所を最大限に伸ばす。訴えてきたこの2点を、指導の道しるべとしていただければ幸いである。

 来季からロッテで指導することになった。新たな縁にまた感謝し、役割を全うしようと思っている。

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 小谷コーチの土台には、利己的の対極をいく人間観がある。響くから、選手は伸びていくのだと思う。

 縁を生かして羽ばたいた野球人は、いつまでも感謝の気持ちを忘れない。12年のちょうど今ごろ、盆明け酷暑の日である。「暑気払いをしよう」と呼ばれた。(つづく)【宮下敬至】

 ◆小谷正勝(こたに・ただかつ)1945年(昭20)兵庫・明石生まれ。67年ドラフト1位で大洋入団。通算10年で285試合に登板し24勝27敗6セーブ、防御率3・07。79年からコーチ業に専念。11年まで在京セ・リーグ3球団で投手コーチを務め、DeNA三浦、ヤクルト石川、巨人内海らをエースに育て上げた。横浜時代の佐々木、ヤクルト時代の五十嵐ら、個性あるリリーフの育成にも定評がある。13年からロッテ2軍投手コーチ。