プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月17日付紙面を振り返ります。2000年の1面(東京版)は横綱若乃花の引退表明でした。

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<大相撲春場所>◇5日目◇2000年3月16日◇大阪府立体育会館

 横綱若乃花(29=二子山)が引退を表明した。進退をかけて臨んだ大相撲春場所5日目、明大中野高の後輩・関脇栃東(23)に押し出されて3敗目。取組後、東大阪市の宿舎に戻り師匠の二子山親方(50=元大関貴ノ花)に「体力を補う気力が限界に達しました」と引退の意向を伝え、承諾された。今日17日、日本相撲協会に引退届を提出する。横綱在位11場所は史上9位の短命だが「お兄ちゃん」のキャラクターでファンに愛された横綱。大相撲人気を支えてきた功労者が、丸12年の土俵生活に別れを告げた。

 最後の相撲も、雨の日だった。初優勝を飾った1993年(平5)春場所、史上初の兄弟横綱を決めた98年夏場所千秋楽、その場所後の奉納土俵入り、いつも雨だった。この日も未明から春の雨。88年(昭63)2月21日、貴乃花とともに入門して4408日目、雨に送られて第66代横綱若乃花は土俵に別れを告げた。

 らしい散り際だった。前日4日目、玉春日戦に死力を尽くして勝ち、この日につないだ。慕われてきた栃東に結果的に渡された引導。「強くなったか? うん、うれしかった」。後輩の成長を肌に染み込ませ、心の区切りをつけた。

 取組後の支度部屋では「ここまできたら怖いものはない。やれるところまでやります」と話していた。だが、宿舎に向かう車中で冷静に限界を悟ったという。「体力を補う気力が限界に達しました」と師匠に伝えた。宿舎で行われた会見。「全く悔いはない」。若乃花にはひと粒の涙もなかった。

 横綱ではケガとの闘いだった。横綱在位11場所は昭和以降歴代9位の短命、29歳2カ月の年齢は6位の若年。11場所中休場5場所、横綱昇進後の優勝ゼロは7人目となる。だがそんな記録よりも、記憶に残る横綱だった。

 今場所、連日館内を手拍子が包んだ。憎らしいほど強いのが今までの横綱像だったが、勝負をあきらめない執念の相撲がファンに愛された。

 最高の思い出を「兄弟で横綱になったこと」、逆に最もつらかったことを「(95年九州場所の)兄弟での優勝決定戦」と振り返った。当初は高校卒業後に入門予定だった。だが「弟のために」と中退してともに初土俵を踏んだ。その弟から98年秋場所前に「絶縁宣言」された。若乃花は傷ついた心を隠し、じっと耐えて関係を修復した。

 耐え続ける力士人生もこれで終止符を打った。「いろいろ経験して楽しかった」。若乃花らしく明るく締めくくった。小さな体で数々のドラマを生み出してきた気力の横綱。20世紀最後の年、大相撲人気を支えた「若・貴時代」が終わった。

<若乃花と一問一答>

 若乃花 体力を補う気力が限界に達したので、本日をもって引退致します。支えてくださった方々には心から感謝致します。

 -いつ、引退を決意したか

 若 今日の取組後の帰り道で考え、こういう結果になりました。

 -夏場所復帰でも良かったのでは

 若 心の問題です。今場所前に、やるぞっという気持ちになったので。

 -後悔は

 若 やることはやった。

 -横綱としての2年間は

 若 夢の中にいるようだった。

 -一番の思い出とつらかったことは

 若 思い出は兄弟で横綱になったこと。つらかったのは兄弟での優勝決定戦。

 -思い出の一番は

 若 初優勝した大阪(93年)で曙関を破った一番。初土俵も大阪だったので「最後」も春にかけてみたかった。

 -今後は

 若 3番目の娘と優勝記念撮影できなかったのが、土俵へ残した忘れ物ですが、協会に残り、後進の指導をしたい。強い力士、一般社会でも通じる人間を育てたいです。

 ◆若乃花勝(わかのはな・まさる)本名花田勝。1971年(昭46)1月20日、東京都杉並区生まれ。88年春場所、若花田のシコ名で弟の貴乃花(当時貴花田)とともに初土俵を踏む。90年(平2)春場所新十両、同年秋場所に新入幕。93年春場所14勝1敗で初優勝。翌夏場所から若ノ花に改名、同年7月大関昇進。94年九州場所から3代目若乃花。98年5月第66代横綱に昇進し、史上初の兄弟横綱が誕生。180センチ、134キロ。得意は左四つ、寄り。通算573勝286敗124休、幕内通算487勝250敗124休。家族は美恵子夫人(31)長男将希君(4)長女瑞希ちゃん(3)二女麻美ちゃん(1)。

※記録や表記は当時のもの