日本屈指の老舗芸能事務所、新栄プロダクション会長の西川幸男(にしかわ・ゆきお)さんが26日午前5時2分、間質性肺炎のため死去した。87歳だった。西川さんは故村田英雄さん(享年73)と「王将」を大ヒットさせ、北島三郎、大月みやこ、細川たかしら数々の歌手を育てた。密葬後、1月にお別れ会を開く予定。喪主は歌手山田太郎で同プロ社長の長男賢(けん)氏(64)。

 関係者によると、西川さんは今月初旬に風邪をひき、容体が悪化して17日に都内の病院に入院していた。その後は元気を取り戻していたが、数日前に急変。26日早朝、静かに息を引き取ったという。家族や所属歌手の新川二朗、西尾夕紀らも直前まで見舞っていた。長男の山田太郎は「残念ですが、人生を本当に全うし、本人は本望だったと思います」と話した。

 西川さんは1925年(大14)に千葉で生まれた。ラジオの浪曲に魅了され、浪曲師を目指した。その後、マネジャーの才能を開花させ、20歳で浪曲の興行を行う「西川興行社」を設立。地元興行主が中心の時代だったが、西川さんの名前は全国に広まっていった。

 49年の暮れに、西川さんの元に1通の手紙が届いた。「東京へ上がりたい。しかし私には相談する相手がいない。そこであなたに聞く。イエスかノーか。はっきりした返事が欲しい」。差出人は浪曲師の酒井雲坊、後の村田英雄さんだった。西川さんは「家族があるなら奥さんと子供を置いて、単身上京できるのか。その覚悟があるなら、こちらの返事はイエスである」と、返事を送った。

 浪曲ブームが去り、テレビ時代となった58年に「西川興行社」から「新栄プロダクション」を設立。村田さんと二人三脚で苦労の末、「王将」(61年)が「戦後初のミリオン」と言われる大ヒットとなり、西川さんと新栄プロは芸能界で揺るぎない存在となった。その後、北島三郎、大月みやこ、宇多田ヒカルの母の藤圭子らを育て上げ、後に細川たかしもマネジメントした。65年には歌手五月みどり(73)と結婚し、プロゴルファー西川哲が誕生した。71年に離婚したが、五月は訃報に接し、「意識のあるうちにお見舞いに行けず残念です。男でした。マネジャーを育てる力量も素晴らしかった」と言った。「王将」の作曲家の船村徹氏(80)は「今日のプロダクションの先駆者。尊敬していました」と話した。

 「吹けば飛ぶような

 将棋の駒に

 かけた命を

 笑わば笑え」

 芸能界を生き抜いた西川さんの歌でもある。

 細川たかし(62)

 デビュー当時、戸惑うことも多かった時に親身に話を聞いていただいたこと、今でもよく覚えています。大恩人でした。今は、残念と感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 北島三郎(76)

 自分がプロの世界に入って出発するにあたり、最初の道しるべとなっていただいた方です。とてもおとこ気があり、器の大きい方。人材を育てることに関しては、とても目が利く方でした。ありがとうございました。

 大月みやこ(66)

 私、大月みやこの歌の世界をスタートさせて下さり、胸をときめかせてすごすことができた時間を情熱をもって作っていただけた恩人です。まだまだご恩返しができていない自分ですので、言葉が見つかりません。