オウム真理教による地下鉄サリン事件など一連の事件では、27人を殺害した罪が裁かれ、命を奪われた犠牲者は29人に上る。1995年に始まった裁判が23年を経て、今年1月に終結して初めての3月。執行への準備とみられる死刑囚の移送が始まった。地下鉄サリン事件直前の95年2月28日に教団が起こした「公証役場事務長監禁致死事件」で、父仮谷清志さん(当時68)を奪われた仮谷実さん(58)は「動きだした」と受け止めつつ、23年が過ぎた今も納得できない父の死因を「知りたい」と思っている。
死刑囚の移送は、執行準備の一環とみられている。
実さん 1歩動きだした。やはり、彼らが生き続けるというのは、あってはならないと私は思っています。こちらは父が殺されているわけだから。執行は大きな区切りになりますが、執行で終わる問題ではない。私は死ぬまで終わらないと思っています。
23年たっても、父清志さんの死因は分からない。一連の裁判では「殺人罪」ではなく「逮捕監禁致死罪」で裁かれた。松本智津夫死刑囚(63=教祖名麻原彰晃)の指示で拉致され、麻酔薬の過剰投与により、教団施設内で中川智正死刑囚(55)が目を離した間に「死亡」したとされる。
実さん 「致死」には納得していない。彼らが麻酔薬を打たなきゃ死ななかった。今も、父の死因を知りたいと思っています。
14~15年の平田信受刑者(52)と高橋克也受刑者(59)の公判では、井上嘉浩死刑囚(48)が「中川さんが『殺害できる薬物を試してみようと思った。点滴したところ亡くなってしまった』と言いました」などと、従来の公判にない証言をした。中川死刑囚は「故意に死亡させたことはない」と否定。判決は井上証言を退けている。
実さん 井上死刑囚には04年春に2回面会していた。「知らないな」と思った。中川死刑囚にも04年秋に2回。説明は従来と変わらなかったが、面会を重ねようと思っていたら、私が体調を崩してしまった。
11年には井上死刑囚から関係者を通じて、同様の内容の手紙も来ていた。
実さん 中川死刑囚に面会を求め、面会室のガラスに手紙を押し付けて、彼の表情だけを見ていた。彼は「違いますね」と。顔に動揺はありませんでした。平田公判、高橋公判の時にも会ったが一貫している。彼が正しいのかもしれない。ただ、そこは分からない。
確定死刑囚への面会は、弁護人や親族以外は特例でない限り、認められない。それでも、知りたい気持ちは変わらない。
実さん 井上死刑囚は証言が安定していない。彼は知らないでしょう。父の死因を知るには、中川死刑囚に聴くか、松本死刑囚に聴くしかない。ただ、今は自分から積極的にとは考えていません。中川死刑囚から「どうしても」ということなら別ですが。松本死刑囚には話してほしいとは思うが、現実的には無理でしょう。
父を奪われた悲しみ、悔しさは一生続く。だからこそ、実さんが大切にしているのは生きることだ。事件前後に生まれた次男と三男は医師を、長女は薬剤師を目指し、大学で勉強中。息子として。父として。戦いはこれからも続く。
実さん 私には一番に、父が命をかけて私たち家族を守ってくれたという思いがある。私たちがしっかり生きていくのが、父の供養になると思っている。明日に向かって生きる。自分のこともさることながら、子どもたちをちゃんと育てる。それが、今の私の一番の責任かなと思っています。【清水優】
◆目黒公証役場事務長拉致事件 オウム真理教幹部が共謀し、1995年(平7)2月28日、東京都品川区内の路上で、目黒公証役場事務長の仮谷清志さん(当時68)をワゴン車に押し込んで拉致し、山梨県の教団施設まで車で連れ去り、監禁した事件。仮谷さんは麻酔薬を注射され続け、翌日の同年3月1日、教団施設内で死亡した。遺体は教団施設内の焼却炉で焼却され、遺灰は本栖湖に捨てられた。事件後、警視庁の強制捜査を予期した教団が捜査かく乱の目的で、地下鉄サリン事件を起こしたとされる。