静岡県の川勝平太知事(75)が、職業差別と受け取られかねない発言で辞職願提出に追い込まれた。当初は6月議会に合わせた辞任を表明したが、早期の批判を求める声が強く、辞任の時期を早めざるを得ない状況に。議長に辞職届を提出する際、川勝氏が戦国武将、明智光秀の娘、細川ガラシャが、自害する前に詠んだとされる辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を口にしたことにも、批判の声が出た。

今の私たちからすれば想像を絶する覚悟の上に死を選んだ細川ガラシャと、「身から出たさび」のような形で辞任に追い込まれた川勝氏の立場を考えると、確かにうなずいてしまう。この句は、細川家の第18代当主で首相を務めた細川護熙氏が、1998年4月に議員辞職の記者会見をした際に、口にした句でもある。細川ガラシャは第2代当主、細川忠興の妻。細川氏が議員辞職したのは60歳を前にしたタイミングで、会見では「60歳で政治は区切りにしようと思っていた」「桜の散り際の潔さに心ひかれます」と心境を説明したが、この時の細川氏の思いとも、川勝氏の置かれた立場は違っていたように感じる。

川勝氏は4期目の任期を1年あまり残し、5月10日に自動失職する見通しだが、そんな中、ある1人の人物が頭に浮かんだ。その人とは、熊本県の知事を務めていた蒲島郁夫氏(77)。蒲島氏も、川勝氏と同じように大学教授から知事までにのぼりつめた人だったが、2008年の初当選から4期務め、4月15日に退任した。追い込まれて辞任した川勝氏とはまったく異なる形で任期を終えた蒲島氏。「くまモン」を誕生させた知事としても知られるが、任期中は熊本地震や水害など大規模災害にも見舞われ、リーダーシップを問われる日々だった。それでも退任前の最後の会見で、4期16年の知事生活を「私の人生で最高に幸せな時間だった」と振り返っていた。

蒲島氏は筑波大や東大の教授を経て2008年4月の県知事選で初当選したが、その時にインタビューしたことがある。地元の高校を卒業後、農協勤務を経て農業研修生として渡米しながらネブラスカ大農学部に入学したものの、その後、同大大学院、ハーバード大大学院と進む中で、政治学の道に「転向」した。そうした経歴にも興味が湧き、ぜひ話を聴いてみたいと思ったからだ。

少年時代は、阿蘇で牛の飼育を夢に抱いていたという蒲島氏。「落ちこぼれだった」高校を経て地元の農協に就職し、研修生として渡米したが、研修があまりにも辛く勉強の方が楽だと思ったことで、英語を必死に勉強したと聞いた。豚の精子の保存方法を研究していたが、人間の行動に関心を持ち、政治学の道に。「生え抜き」が主流の東大法学部の教授に、東大出身ではなかったが招かれたこともその時に知った。

取材した当時は給与カットに着手し、条例で124万円の給料は最初の1年間は100万円マイナスの24万円となり、手取りは14万円。当時は「削減幅は全国最大、額は全国最低」と話題になったが、インタビューでは結果よりもプロセスの大切さを訴えておられた。「期待値を超えるため、120%の努力をするのが僕の人生」「期待を裏切らないことができれば、次のステップが待っている」。論理的な筋立てで「人生訓」にもつながるような言葉をいくつも耳にしたことを、川勝氏の問題に触れる中で思い出した。

「去り際」というのは、どんな立場の人でもそれぞれの形がある。学者の立場をへて同じように自治体を取り仕切る知事の立場にのぼりつめた川勝氏と蒲島氏。同じ時期に、追い込まれるように辞職願を提出せざるを得なかった川勝氏と、「幸せな時間だった」と言って任期を終える蒲島氏のあまりにも対照的な姿には、考えさせられるものがあった。【中山知子】(ニッカンスポーツ・コム/社会コラム「取材備忘録」)