朝の9時に三次から、ちょっとしたバス旅を楽しんだ。三江線の廃線に伴うバスで、思いつきに近かったため、訪れた駅跡は2つのみ。前回の訪問は廃線が発表される前の6年前だっただけに、楽しんだというよりも、懐かしく、そして感傷的な心持ちも大きい。駅での出会い、そして江の川沿いの1駅徒歩は忘れられないものとなるはずだ。(訪問は4月9日)

朝9時の三次駅。芸備線の三次~備後落合全駅訪問を終えた私は、この後どうするか迷っていた。帰るといっても新見方面の芸備線と福塩線は午後までない。鉄道だと広島方面への芸備線一択しかないのだが、それでは何か味気ない気がする。せっかく朝の9時に三次にいるのである。大阪から、この時間に三次に来るのは不可能なので、このまま帰るのはもったいない。駅前の喫茶店でモーニングをいただきながら思案(三次に来ると朝は必ず利用させていただく貴重なお店です)。

するとスマホで周辺のバスを調べていた私の目に飛び込んできたのは「式敷三次線」という路線。式敷は三江線の駅。安芸高田市停留所を見ると途中の旧駅を回っていくバスのようだ。思いつきではあるが、なんとか2駅ほど回ることにする。駅前のバスターミナルで時刻を確認。念のために観光案内所に足を運んで地元の方のための予約制バスではないかどうかを尋ねた。だれもが乗車できる路線バスということが分かり、ひと安心。10時2分、ワゴン車のバスに乗り込む。(写真1、2)

〈1〉式敷三次線のバスダイヤを確認
〈1〉式敷三次線のバスダイヤを確認
〈2〉バスはワゴンタイプだった
〈2〉バスはワゴンタイプだった

今回は6年前の訪問で印象に残る2つの駅に行くことにした。船佐と長谷(2019年7月4日の記事)。計画はこうである。このバスは10時19分に船佐に着く。その後式敷に至り、折り返しが長谷着11時32分で、この間約70分。その間に1駅分歩けば良いのだ。三江線の現役時代、線路での距離は2・2キロだった。後述するが道路も同じような距離である。多分、大丈夫。一応、運転手さんに「たどり着けずにトボトボ歩いている私を見つけたら特別に拾ってください」と、半分冗談、半分真面目なお願いをして船佐で降りると6年前と、ほぼ同じ景色が広がっていた。(写真3~5)

〈3〉現役時代と変わらない待合室が残る旧船佐駅
〈3〉現役時代と変わらない待合室が残る旧船佐駅
〈4〉待合室の中には「ありがとう」の文字と写真
〈4〉待合室の中には「ありがとう」の文字と写真
〈5〉写真も張られている
〈5〉写真も張られている

船佐は待合室とホームが離れていて、その途中に駐輪場があり、1面1線のホームに入るようになっていた。ホームの線路逆側は広いスペースで、おそらく将来的に島式2線にする計画で駅を設けたものの、そのままになったものと思われる。駅舎には今も立ち入り可能で、三江線の写真が張られていた。ただし駅の入り口には「立ち入り禁止」の柵が設けられ、廃線の現実を思い知らされる。すると、そのタイミングで作業に出かけるところだったのか、手押しの3輪車とともに住民の方がやって来られた。

あいさつをすると「どこから?」。「神戸です」と答えると「そりゃ遠い所からおつかれさま。あそこの看板を見てやっていってよ」とホームのかなたを指さす。「私もそのつもりで来ました」と言うと「気をつけて帰ってね」と去っていかれた。

そのかなたにあるのが「空爆被災の地」の説明板。2019年の記事でも記したが、戦争末期、この地に飛来した米軍のB29が爆弾を投下。住民7人が命を落とした。戦時中、中国山地での空爆は、この1回だけだった。確かに米国と戦争中ではあったが、軍の施設があったわけでもない山中に突然B29が飛来して軍人でもない女性と子供が命を落とす。こんな時代だから考えさせられる歴史だ。先ほど出会ったのは廃線のころ、メディアに当時のことを証言していた方だと思う。(写真6~9)

〈6〉待合室側には立ち入り禁止の柵があるが事実上、ホームに入れるようになっている
〈6〉待合室側には立ち入り禁止の柵があるが事実上、ホームに入れるようになっている
〈7〉空爆被災の説明板
〈7〉空爆被災の説明板
〈8〉ホームにはキロポストも残る。江津から98・4キロだったので「4」だけが残っていると思われる
〈8〉ホームにはキロポストも残る。江津から98・4キロだったので「4」だけが残っていると思われる
〈9〉バス停も兼ねた駐輪場が今も残る
〈9〉バス停も兼ねた駐輪場が今も残る

入り口に立ち入り禁止の柵があるものの、事実上ホームには入れるようになっている。構造上の問題や線路の向こうに民家があることもあるのだろうが、ホームを完全に柵で覆うと、この説明板も見られなくなってしまう。そんな配慮も感じつつ船佐を後にした。

時計は10時半を回っている。長谷へ急ごう。ここからは江の川沿いに一本道。駅を出てしばらくすると1カ所だけ交差点があるが、とにかく江の川沿いに行けば問題ない。交差点には立派な橋梁(きょうりょう)が残っているので、それに沿っていけばいいのだ。道路はいわゆる狭隘(きょうあい)で、大きめの車だと、すれ違いがピンチになるが、歩く分にはもちろん問題ない。江の川の美しい景色を眺めながら歩く。(写真10~13)

〈10〉長谷駅へ向かう道路はひとつだけ交差点があるが今も残る橋梁に沿っていけばいい
〈10〉長谷駅へ向かう道路はひとつだけ交差点があるが今も残る橋梁に沿っていけばいい
〈11〉道路が狭く車のすれ違いも大変だが歩くには問題ない
〈11〉道路が狭く車のすれ違いも大変だが歩くには問題ない
〈12〉美しい橋梁が残る
〈12〉美しい橋梁が残る
〈13〉徒歩で三次市に入る
〈13〉徒歩で三次市に入る

もっとも運転手さんに「かなりこの道を運転しているけど、歩いている人は見たことないねぇ」と言われた(笑い)のは、その通りのようで車にはそれなりに遭遇したが、歩行者はおろか自転車にも出会わなかった。ただ川沿いながら平たんで、原稿を書いている今はともかく、4月上旬の徒歩にはちょうど良い道程だ。日が暮れると、とても歩く気にはなれないだろうけれど。

ちょうど30分で長谷に到着。現役時代は、もともと本数が少ない三江線の普通列車ですら通過することで知られた駅だった。1日2往復半。三次行きは午前9時6分が「最終」。江津方面へは14時30分が「始発」。それでも高台のホームから眺める江の川の景色も有名だった。階段を上がると駅舎があり、さらにその上にホームがあった。てっきり階段の下から立ち入り禁止になっているのかと思いきや、駅舎のところまで行けた。「JR西日本」の文字は消えたが「長谷駅」はそのままである。(写真14~17)

〈14〉長谷駅の駅舎が見えた
〈14〉長谷駅の駅舎が見えた
〈15〉階段を上ったところに駅舎があり、さらにその上にホームがある構造だった
〈15〉階段を上ったところに駅舎があり、さらにその上にホームがある構造だった
〈16〉駅舎はそのまま残る。ホームには立ち入り禁止となっている
〈16〉駅舎はそのまま残る。ホームには立ち入り禁止となっている
〈17〉現役時代の長谷駅の時刻表(2016年5月撮影)
〈17〉現役時代の長谷駅の時刻表(2016年5月撮影)

バス停は少し離れた交差点にあった。あまりにも順調に到達したため、うまくいけばさらに先の粟谷駅まで行けるのではないかと、よこしまな考えもよぎったが、運転手さんとの約束もある。バス停は片側だけにあるタイプ。定刻通りにやってきたので「お~い」と手を振って三次へと帰還。急な思いつきにしては、なかなか密度の濃い2時間だった。次回は態勢を整えて三江線の各駅を回ってみたい。【高木茂久】(写真18~21)

〈18〉橋梁のふもとに長谷のバス停を見つけてひと安心
〈18〉橋梁のふもとに長谷のバス停を見つけてひと安心
〈19〉長谷のバス時刻表。平日は病院への貴重な足となっていることが分かる
〈19〉長谷のバス時刻表。平日は病院への貴重な足となっていることが分かる
〈20〉三次駅行きのバスがやって来た
〈20〉三次駅行きのバスがやって来た
〈21〉トンネルも残っていた
〈21〉トンネルも残っていた

※三江線 山陰本線の江津駅(島根県)と芸備線の三次(広島県)を結んだ。江の川に沿うように敷設され、昭和初期から徐々に延伸。戦時中に工事は中断したが1975年に108キロの全線が開通。2018年3月いっぱいで廃線となった。全通が遅かったこともあり、定期優等列車は1度も運行されなかった。


◆後記 2019年3月から3年以上続けてきた「ニッカン鉄道倶楽部」ですが、今回をもって筆を置きたいと思います。スタートのきっかけは夕張線の廃線でした。その後、全国各地の鉄道(特に駅)を紹介しようと考えていたのですが、想像もしなかったコロナ禍のため、大幅に行動が制限されることになり、九州地方については1度も紹介できずに終わってしまったことが残念です。また紹介を前提に出かけた地方私鉄や第3セクターでは、私の筆力の問題でうまく表現できず、今に至るまで紹介できなかったものもあります。

鉄道だけでなく特に地方では公共交通機関を取り巻く状況は大変厳しいものがあります。鉄道に比べると大きく取り上げられることはありませんが、全国でバス路線の廃止が加速度的に相次いでいるのが現状です。ただローカル線の乗車中に、列車の最前部で、お母さんの横で前面展望に夢中になっている子どもの姿を見ると、こちらの口元が、ついつい緩んでしまうのも事実。こんな光景をこれからも各地で見られたらいいな、と思います。みなさまも良き鉄道ライフを。ありがとうございました。