新庄剛志の移籍加入した日本ハムで、小笠原道大(44=中日2軍監督)はチームの顔だった。パフォーマンスとは無縁の、野球にストイックな男だった。あまりにもタイプの違う選手。臆測を呼び、2人の不仲説がささやかれたりもした。実際には休憩の時、コーヒーを飲みながら「あそこの飯がうまかった」などと雑談する間柄。プライベートの付き合いがあるほどではなかったが、不仲でもなかった。ただ「そう思われてるなら、面白いからそのままにしておこうかってなったんじゃないかな」。薄れた記憶を探りながら振り返った。

「なにごとも中途半端はやらなかった。プレーもパフォーマンスも服装も含めて、エンターテイナーとして演じていた」と新庄を見ていた。だが、一緒にパフォーマンスをする機会はなかった。「やるからにはって自分で全部引き受けてた。好き勝手やってた分、場を荒らしてはいけないって考えてたんだと思う」。主力だった小笠原の野球に取り組む環境を邪魔してはいけないという配慮もあったのだろう。新庄からパフォーマンス共演の誘いがかかることはなかった。

小笠原の方も「そういう感覚はなかった。若い頃はどうなんかな? っていうのもあった。色が違うからね。そこはどうぞって感じだった」と新庄に任せていた。自分は打って勝つことでファンを喜ばそうとした。「ほんとに正反対ってぐらいタイプが違う。同じじゃしょうがないし、同じだったら移籍してきてないでしょうし、違うタイプだから来られたんだと思う」。06年、両雄は並び立ち、日本一という形で、北海道での有終の美を飾った。

パフォーマンスは万人に見せても、練習で必死な姿は見られなかった。「見せたくないんだよ。涼しい顔して当たり前のようにやる。苦労してるのは見せないっていう考え方。そこは昔の人。共感できる。昭和の人だった。旅館の畳がすり切れるまで素振りするみたいな」。平成の球場を沸かせたタイプの違う2人に、共通して宿っていたのは昭和の精神だった。

ともにプレーした3年間。新庄がいたからこその成功を実感している。「俺には、ああいうパフォーマンスはできないことだから。北海道での成功は、あの人がいなかったらなかった。そこだけは120%の確率で言える」。違うタイプを極めた小笠原から新庄への最上級の賛辞だった。(敬称略=つづく)【竹内智信】

06年10月、日本シリーズ第5戦 日本ハム対中日 抱き合う小笠原(奥)と新庄
06年10月、日本シリーズ第5戦 日本ハム対中日 抱き合う小笠原(奥)と新庄