2020年東京五輪の男子マラソンが熱い! 1964年(昭39)東京五輪開幕から10月10日で50年がたった。これを機に、男子マラソンで銀メダルを獲得したベイジル・ヒートリー氏(80=英国)が来日。五輪50周年企画第4弾として、ヒートリー氏は20年8月9日(日)午前7時半に号砲予定の男子マラソンのコースを車で試走し、世界で最も早い同コースの攻略法を語った。

<多いカーブに 30メートル高低差 勝負どころは 最後の坂でも 明暗分ける 暑さ対策>

 ちょうど50年後の10月10日。ヒートリーは、国立競技場に足を踏み入れた。50年前に開会式で見上げた聖火台。今度は、20年東京五輪のために、その聖火台が取り外される瞬間に居合わせた。

 ヒートリー ここでゴールしたのかと思うと感慨深い。今でも、観衆の声が聞こえるようだ。

 新国立競技場に変わっても、50年前と同じように、20年の男子マラソンのスタートは、同じ会場だ。

 ヒートリー 20年にも、ランナーがここからスタートを切る。50年の歴史はつながっていると感じた。

 国立競技場から西を目指し、調布で折り返した64年と違い、20年のコースは都内の名所を回る。

 ヒートリー レースに集中していて景色を見る余裕はなかったが、田園風景が広がっていた。20年は人も多く、道路幅が狭い都心のレースだ。その分、難しいかもしれない。

 予定されているコースは、新国立競技場を出発し、四谷、水道橋と北東に走り、一気に、皇居脇から浜松町まで南下。今度は北上し、銀座を抜け、浅草で折り返す42・195キロだ。

 ヒートリー 64年はほとんど直線距離だった。しかし、今回は結構、急カーブや入り組んだ走路なので、そこがポイントかもしれない。

 高低差は約30メートル。その差は、四谷と飯田橋の間を走る外堀通り約2・5キロに凝縮される。往路ではスタートから2・5キロ地点で一気に下り、復路では勝負どころの35キロ過ぎから上りとなる。

 ヒートリー 行きは大丈夫だろう。しかし、帰りは難関だ。そこまでに、どれだけ力をセーブしておけるか。最後に上りがあると、足に来る。その約2・5キロで勝負が決まる可能性も高い。

 しかし、それ以上に難関なのが、真夏の暑さと湿度だ。64年のレースは、スタート時点で気温は約18度。しかし、10月としては湿度が78%と高かった。

 ヒートリー 本当に蒸していた。レースも全体的に遅いペースで、わたしも最初は自重した。折り返しで、飛ばしていた選手はけいれんを起こしていたのを覚えている。

 気象庁のデータによると、東京都心で8月の過去10年の平均気温は約28度。湿度は約70%だ。これは深夜のデータも加算されているため、日中は数値は上がる。過去10年で8月の日中の最高気温は10年の33・5度だ。

 ヒートリー わたしなら走れないね。コースよりも、気温と湿度の方が敵だ。観衆とアスファルトの照り返しで、選手は、気温以上の暑さを感じると思う。

 91年9月1日に、東京で行われた世界陸上男子マラソンは、午前6時に国立競技場をスタート。それでも気温26度で湿度73%だった。

 ヒートリー 過酷なサバイバルレースになるかもしれない。暑さ対策がどれだけできるかがカギになる。

 64年当時、世界最高記録を保持し、五輪に挑んだヒートリーでさえ、湿度の高さで金メダルに届かなかった。2020年の組織委員会は、保水性の高いアスファルトや、ミスト散布で暑さ対策を練っているというが、スタートは午前7時半。ゴール間近の午前10時頃は、それこそ熱過ぎるサバイバルが展開されているだろう。(敬称略)【吉松忠弘】

 ◆ベイジル・ヒートリー(Basil Heatley)1933年12月25日、英ケニルワース生まれ。クロスカントリーで陸上を始め、戦後、本格的に競技生活をスタート。58年10マイル走で世界記録を樹立。64年ポリテクニックマラソンで2時間13分56秒の世界最高で優勝した。銀メダルを獲得した64年東京五輪が最初で最後の五輪で、その後、引退した。

 ◆64年東京五輪マラソン展開 68人が参加(完走58人)。連覇を狙うアベベはクラーク(9位=オーストラリア)ホーガン(途中棄権=アイルランド)と10キロを30分14秒のハイペースで通過。20キロまでに独走態勢を築き、世界新で優勝した。5位で折り返した円谷は30キロまでにクラーク、35キロ過ぎてホーガンとシュトー(5位=ハンガリー)を抜き2位に。最後にヒートリーに抜かれたが銅メダルを獲得。君原は入賞圏外の8位(当時入賞は6位まで)、寺沢は15位。

(2014年10月29日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。