多くのアスリートの夢を奪った戦争―。陸上競技女子跳躍の山内リエも、五輪の金メダルを逃した。中京高女(現至学館大)のエースとして期待された1940年の東京五輪が第2次世界大戦での開催返上で幻に終わり、戦火を超えて迎えた48年のロンドン五輪は参加の道を閉ざされた。走り高跳びと走り幅跳びで世界的な記録を連発しながら五輪の舞台は踏めなかった悲運のジャンパーにスポットを当てた。【荻島弘一】

■1940年18歳 第2時世界大戦で開催を返上

 数年早くか、数年遅く生まれていたら、日本陸上界の歴史は変わっていたかもしれない。山内は、そう思わせるほどの選手だった。1936年、14歳で走り高跳びの日本記録を樹立。40年五輪の東京開催が決まった直後だった。37年に広島・呉精華高女(現清水が丘高)から中京高女に転校してからも「東京五輪のホープ」として注目された。

 39年に卒業すると、同校専攻科に進み五輪を目指した。しかし、その年の7月に政府が開催を返上。東京五輪は幻に終わった。同校専攻科卒業後は教師として母校に残ったが、戦禍が激しくなると、競技を続けることも困難になった。結局「教員生活になじめない」と、競技を離れて故郷の呉に帰った。

■1944年22歳 戦禍激しくロンドン五輪中止

 戦後、競技に復帰すると再び好記録を連発。47年には走り幅跳びで6メートル突破の日本新をマークした。28年に人見絹枝が出した5メートル98を19年ぶりに更新、その後もコンスタントに6メートル台を出し、6メートル7まで記録をのばした。これはこの年の世界ランク1位記録で、2位は5メートル76。翌年にロンドン五輪を控えて、再び周囲の期待は高まった。

 戦後復興を目指す日本国民は、スポーツから力をもらった。競泳男子長距離の「フジヤマのトビウオ」古橋広之進とともに、山内は「金メダル確実」とも言われた。しかし、再挑戦を夢見たロンドン五輪は「敗戦国」という理由で日本の参加が認められず。山内は再びチャンスを逃した。

■1948年26歳 「敗戦国」参加認められず夢断たれた

 48年8月、古橋はロンドン五輪に合わせて行われた日本選手権(神宮)400メートルと1500メートルに優勝。ともに五輪優勝タイムを上回る記録で「世界一の実力」を示した。山内もまた、五輪の2週間後に行われた日本選手権(山形)の走り幅跳びで優勝。記録は5メートル77だったが、それでも五輪金メダリストの5メートル68よりも上。古橋同様「世界一の実力」であることを見せた。

 「国民的ヒーロー」だった古橋に比べ、山内の偉業が語られることは少なかった。戦後は中国新聞、毎日新聞で記者としても活躍したが、戦時中や戦後の記録は意外なほど残っていない。2000年に亡くなるまで独身だったことで語り継ぐ人もいなかった。それでも、偉業は色あせない。

 「私の競技史」という山内の自伝がある。塔野チエという架空の少女を描いた小説だ。この中で「チエは私自身」と明かしながらも「自分のことを書くのは難しい」ともある。小学校の時に「人見絹枝に似ている」と言われて喜んだことなどが軽快な文章で書かれているが、偉業を残すことには積極的ではなかったようだ。

 男子3段跳びで日本人初の五輪金メダリストになった織田幹雄は「競技的実力は人見さんをしのぐものがある」と絶賛した。ベルリン五輪の36年に彗星(すいせい)のように現れ、ロンドン五輪の48年に一線を去った。中止の40、44、不参加の48年と3度の五輪チャンスに1度でも出場できていれば、高橋尚子の半世紀以上も前に日本女子の陸上金メダリストが誕生したかもしれない。

 90年に母校の中京女大に招かれた山内は、後輩たちに「努力という言葉は不変の指標」と説いた。満足な食事もできず、練習環境も最悪だった。時代に苦しめられた。それでも、努力は怠らなかった。独学で技術を身につけ、教師に「もう帰れ」と言われるまで練習した。小学校の徒競走で1位になってもらった金メダル。五輪で手にすることはなかったが、その実力は間違いなく金メダル級だった。

 ◆山内リエ(やまのうち・りえ)1922年(大11)2月15日、広島・呉市生まれ。34年の高等小学校入学後に本格的に陸上競技を始め、広島・呉精華高女1年の36年に走り高跳びで初の日本記録を樹立した。37年に座骨神経痛の治療を兼ねて中京高女に転校。44年に同校専攻科を卒業すると、同校に体育教師として赴任した。終戦直後の45年9月に中国新聞社入社、翌46年には京都・菊花女子専門学校の教師となり、翌47年には毎日新聞に入社した。日本選手権は史上最多の延べ24回優勝。2000年10月8日脳内出血のため京都市内の病院で死去した。

<表>出身大学別金メダリスト数
<表>出身大学別金メダリスト数
<表>陸上女子日本の五輪入賞者
<表>陸上女子日本の五輪入賞者

■中京高女から至学館大に校名変更されても

 昨年のリオデジャネイロ五輪で女子6階級中4階級制覇、レスリング世界最強クラブを擁する至学館大だが、前身の中京高女は陸上女子の強豪として有名だった。山内リエの他にも、36年ベルリン五輪やり投げ5位の山本定子や52年ヘルシンキ五輪円盤投げ4位の吉野トヨ子ら、表彰台に迫った選手もいた。

 特に強かったのは30年代だった。東京五輪を翌年に控えた39年日本選手権は、五輪で予定された実施7種目のうち6種目を制覇。100メートルで吉野が、走り高跳びと幅跳びで山内が、砲丸投げと円盤投げで児島文が優勝、400メートルリレーは2位に15メートルもの差をつけた。今のレスリング部同様、国内無敵だった。

 当時、中京高女家事体操専攻科は女子体育教員養成校として国から無試験検定校の認可を受けていた。全国5校だけで、東京女子高等師範学校(現お茶の水女大)など他の4校は東京にあった。つまり、西日本の優秀な選手が集まりやすかったのだ。顧問の内木正年(ないき・まさとし)氏の力も大きかったという。

 「東京五輪でメダルを」という期待も大きかったはずだ。ベルリン大会のリベンジを誓った山本、山内と同期の吉野らも五輪返上にショックを受けただろう。メイン会場の駒沢陸上競技場で表彰台に立つことを夢見ていたのだから。戦後、顧問の内木氏が学校を離れてから部は低迷した。

 戦前の陸上部、今のレスリング部、実は共通点があった。同校の100年史を執筆し、内木氏にも直接取材をしている同校健康科学部の越智久美子助教(40)は「指導者と選手の近い関係、選手の自主性を重んじる指導、さらに部が少人数だったという点も似ていますね」と話す。学校そのものが小規模だから部員数も少ないが、それだけ親密な指導もできる。選手との距離も近くなる。そこが「強さ」の秘密でもある。

 日本選手権上位を部員同士で争い、みんなが「世界」を目指した。強くなるために「努力」を惜しまなかった。今とは時代も違うし、環境も違う。それでも学校の「遺伝子」は、しっかりと受け継がれている。

 谷岡郁子学長(62)は、20年の東京五輪が「三度目の正直」だという。40年大会は幻に終わり、64年大会は戦後の混乱で満足な準備ができなかったという。リオに続いて金メダルラッシュが期待されるレスリング部。山内リエら大先輩たちは、後輩たちに天国から声援を送るに違いない。

 ◆至学館大学(しがっかんだいがく)1905年(明38)に、中京裁縫女学校として名古屋市高岳町で創立。14年に高等師範科、21年に高等女学校、22年に家事体操専攻科を併設した。戦後、学制改革によって中京女子中学、同高校、同短大を開設。63年に中京女子大を開設した。2005年に中京女子大付属高が男女共学化して至学館高と校名変更。08年には大学院、大学・短大が男子学生の受け入れを始め、10年に学校法人名、大学名も至学館と変更した。現在の設置学部は健康科学部、短期大学部。愛知県大府市横根町名高山55。谷岡郁子学長。

(2017年3月15日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。