<阪神VS.ダイエー>◇03年10月22日:日本シリーズ第3戦◇甲子園

前日の雨が上がって、甲子園には青空が広がっていた。2003年(平15)10月22日。俺は大阪・梅田から阪神電車に乗って、日本シリーズ第3戦、阪神-ダイエーが、間もなく始まる甲子園に着いた。

レプリカユニホームを着た人の群れが、駅から球場までのわずかな距離を埋めていた。背番号53の白い縦じまのユニホームがやたらと目について、俺が連れと「アカボシ(赤星憲広)って人気あるんだな」と話していると、そばを通ったおっちゃんが「アカホシや」と言って、ギロリとにらんだ。敵地、福岡ドームで連敗。もう負けられないという殺気にも似た空気を感じて、俺は小さな声で「すいません」と身をすくめた。

当時、駅前にはスーパーのダイエー甲子園店があった。熱狂的な虎党の聖地では、親会社も商売しにくかろう。この日は、いつもより早めに店じまいするという。店内には、ホークス3度目のリーグ優勝を記念したグッズが、ひっそり売られていた。俺は阪神ファンに見つからないよう、タオルとメガホンを買って、こそこそとバッグに詰め込んだ。

03年、阪神甲子園駅前のダイエーで買ったタオルとメガホン。ダイエーの日本一を報じる号外と日本シリーズのパンフレット
03年、阪神甲子園駅前のダイエーで買ったタオルとメガホン。ダイエーの日本一を報じる号外と日本シリーズのパンフレット

三塁側内野席に座ると右も左も阪神ファン。縦じまが、見事にスタンドを埋め尽くし、球場全体で相手チームを威圧、いや威嚇するような雰囲気が充満していた。当時、売り出し中だったダイエーの川崎宗則が、後にテレビで語っていたことが、この日の甲子園をよく表している。試合前の練習中、スタンドから愛称の「ムネリ~ン」と呼びかける黄色い声がした。振り向くと「ムネリンとか呼ばれて、調子乗ってんじゃねぇよ」。

試合は延長10回、阪神が藤本敦士の犠飛でサヨナラ勝ち。ものすごい歓声が球場を覆った。まるで球場全体が、トランス状態に入ったようで、俺は本気になった時の甲子園が心底、怖くなった。

ダイエーは甲子園で3連敗して福岡へ戻った。日本一に王手をかけられて帰福した時の心境を、今もホークスに在籍する和田毅に聞いたことがある。

「明日、負けたら終わりという状況で福岡に帰ってきた。サヨナラ負けで嫌な感じでした。だけど、JR博多駅は、出迎えのファンで埋め尽くされて、優勝したみたいだった。負けて帰ったのに、この応援は何だ、と。これは絶対に負けられないと思った」

ダイエーは6、7戦に勝って、2度目の日本一となる。このシリーズは、すべてホームチームが勝ったことが話題になった。

第7戦で完投し、胴上げ投手となった和田は、こんなことも言っていた。

「甲子園も福岡も応援が熱狂的で、まさにファンの意地をかけた対戦でした」

和田の口調がぐっと熱を帯びた気がした。「ファンあってのプロ野球」。あの日、本気の甲子園を見た俺は、言い尽くされた言葉に宿る真理を見た気がする。(つづく)

【秋山惣一郎】

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今では考えられないことだが、20年ほど前のパ・リーグは暗闇の中にあった。スターや有望新人はセ・リーグや米大リーグへ流れた。93年以降の10年、日本シリーズでパ球団が勝ったのはわずか2回。セの2軍化がささやかれていた。04年には球界再編の波にのみ込まれ、リーグ存亡の縁に立った。この連載は、ファンの視点で見た、夜明け前のパについての極私的な観戦の記録だ。細かい記憶違いがあるかもしれない。ご容赦の上、しばしおつきあいください。(文中敬称略、表記はいずれも当時)