11年3月23日。東日本大震災直後に開催されたセンバツに、東北は宮城県代表として出場した。塩釜の実家が被災した金子心平さん(26=旧姓吉川)は、正捕手として出場した。この甲子園で「応援してくれる方のためにプレーをするようになった」と振り返る。

震災直後で開催の是非を問われる中、開催に踏み切った大会だった。当時、東北のグラウンドや寮がある泉区は比較的、被害は少なかったものの、ライフラインはストップ。野球どころではなく、十分な調整もできないまま28日の初戦を迎えた。「グラウンドに立ち甲子園全体を見回し、その大観衆に鳥肌が立ちました」。学校が応援団の派遣を見送ったにもかかわらず、三塁側アルプスは超満員だった。学校関係者のほか、地元兵庫県から14の高校、476人の友情応援。一般の人々も大勢が東北の応援にかけつけ、約5200人で埋め尽くされた。そして「頑張ろう東北」と書かれた応援ボードが並んだ。甲子園が1つになった。

試合は大垣日大(岐阜)に0-7で大敗した。「でも、僕らができることは全力疾走、全力プレーだと話をしてプレーしました」。点差が離れてもあきらめないナインに、甲子園は拍手と大歓声に包まれた。「『頑張れよ!』『ナイスプレー!』とたくさんの方に声をかけていただきました。正直、被災地のことを考えると、僕たちは甲子園に行っていいんだろうかと迷いがあった。でも、応援の声を聞いて、来てよかったと思いました」。観客の心は揺さぶられた。そして金子も「負けて、得るものがたくさんあった」。この1試合が人生を変えた。

甲子園から帰るとすぐ、チームメートと石巻市にボランティアへ。家屋の泥掃除にがれきの撤去。海水と腐った食べ物の臭いが混じり、鼻をつんざく。嘔吐(おうと)する仲間もいた。「すぐそこでは人が亡くなったと聞き、言葉を失いました。何もかもが衝撃的な光景でした」。まだ17歳の少年が命と向き合った。人々は球児たちを見ると「頑張ったな」と笑顔で声をかけてくれた。野球は人を笑顔にする。

「この人たちのために、僕は野球を頑張る。そう思うようになりました」

卒業後、東北福祉大へ進学すると、同学年の長坂拳弥捕手(現阪神)と鍛え合った。現在もTDKで野球を続ける。昨年は7年ぶりの都市対抗野球出場に貢献した。どんなにつらくても歯を食いしばり、前を向く。震災を経験し、誰かのために野球をする大切さを知っているからだ。

昨年の都市対抗に出場した時、東京ドームのグラウンドに立ち、スタンドを見回した。コロナ禍で応援団はおらず、観客数も制限されていたが、東京本社や秋田から駆けつけてくれた会社の仲間たちの声援に胸が熱くなった。「それは10年前、甲子園で見たアルプスの景色と似ていた。震災に甲子園があったから、僕は野球を続けられている」。今も、甲子園で戦ったときと同じ全力疾走、全力プレーがモットー。これからも、応援してくれる人のためにプレーする。【保坂淑子】

<金子さんの10年>

◆11年3月11日 室内練習場で練習中、地震発生

◆同3月14日 連絡が取れなかった母の生存を確認

◆同3月28日 大垣日大に0-7で敗退

◆同3月30日 石巻市でボランティア活動を開始

◆13年4月 東北福祉大進学

◆15年11月 3年秋、明治神宮大会に出場

◆17年4月 TDK入社

◆20年12月 都市対抗野球大会出場