ドジャース大谷翔平投手が、3年連続4度目のMVPを受賞しました。1975、76年のジョー・モーガン(レッズ)以来2人目となる、2年連続MVPとワールドシリーズ制覇の同時達成を成し遂げました。そのモーガンと私が初めて会ったのは、ちょうど50年前でした。

1975年8月、私は恩師の「パンチョ」こと伊東一雄さんに同行して、大リーグを観戦しました。最初にサンフランシスコを訪れ、当時のキャンドルスティックパークで地元ジャイアンツ対レッズの試合を観戦。試合前、グラウンドではレッズの選手たちが打撃練習を行っていました。

その時、名将スパーキー・アンダーソン監督がパンチョさんに「見ろよ。あの男は身長1メートル70センチしかないが、今や球界NO・1の二塁手だ。ジャッキー・ロビンソンに匹敵する。将来必ず殿堂入りする」とささやいていました。そばに寄ると、それが「リトルジョー」ことモーガンでした。

当時18歳の私は日本人の中でも小柄な体格でしたが、彼と一緒に並んで記念写真を撮ってもらうと、ほとんど身長が変わらず。大リーグの世界にも、こんな小さい選手がいるのかと驚いてしまいました。

1963年にアストロズでデビュー。右投げ左打ちの俊足選手として鳴らしましたが、せいぜい打率が2割7、8分程度の平凡な選手でした。モーガンに芽が出たのは、71年オフに大型トレードでレッズに移籍してからです。

それは偉大なるボブ・ハウザム会長の慧眼(けいがん)によるもので、アストロズ時代は1、2番打者だったのが、レッズに来てから3番に定着。大リーグ史上最高の捕手と言われるジョニー・ベンチも「彼がチームを大きく変えた」と絶賛していました。

72年ワールドシリーズ第2戦で、前述の黒人大リーガー第1号ロビンソンが始球式に登場。両軍の選手1人1人と握手した時、彼は尊敬するロビンソンに話しかけたかったが、緊張のあまり「サンキュー」しか言えず。既に糖尿病のため失明同然のロビンソンは、それが誰か分からなかったはずで、自らに比べられるほど偉大な選手になることを知らず、10日後に心臓発作のためこの世を去りました。

70年代に「ビッグレッドマシン」の異名を持つレッズは黄金時代を迎え、10年間で6度も地区優勝しました。特に75、76年と2年連続で世界一に輝き、後に歴代最多通算安打記録を持つピート・ローズ、ベンチ、トニー・ペレスといった偉大なスター選手たちを差し置いて、モーガンは2年連続MVP受賞となりました。75年は打率3割2分7厘、17本塁打、94打点、67盗塁。76年は打率3割2分、27本塁打、111打点、60盗塁でした。

その後ジャイアンツ、フィリーズなどで22年間プレーし、90年にアンダーソン監督の予言通り見事、有資格1年目で殿堂入り。現役引退後は米スポーツ専門局ESPNの解説者として人気を博しましたが、残念ながら20年に多発性神経障害に侵され、77歳で亡くなりました。

75年ワールドシリーズ第7戦。35年ぶり世界一を決める9回表の一打も、私は東京帝国ホテルのラウンジにあるテレビに1人かじりついて見ていました。大谷が、その殿堂入りモーガン以来2人目の2年連続MVP&世界一同時達成したことには、感慨深いものがあります。

【大リーグ研究家・福島良一】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「福島良一の大リーグIt's showtime!」)