ドジャース大谷翔平投手(30)が「40-40」を達成する60年前の9月1日、日本人初のメジャーリーガーが誕生した。
村上雅則氏(80)がジャイアンツでメジャーに昇格。初登板も果たした。まだ1ドルが360円の固定相場だった時代。南海から野球留学で派遣された弱冠20歳の左腕が、いかにしてチャンスをつかんだのか。「マッシー・ムラカミ」の愛称で親しまれたパイオニアが歴史をひもときながら、後輩の大谷にもエールを送った。
■60年前9・1 3階級特進で
日本でも3試合しか登板経験がなかった20歳の左腕が、大都会ニューヨークのシェイスタジアムに現れた。64年9月1日のメッツ戦。3万9379人の観衆に村上青年は「前々日までマイナーのゲームは500人ぐらい。それがメジャーで新しい球場で4万人ちょっと入っていた。上がっちゃいけない」。「SUKIYAKI」として米で流行していた坂本九の「上を向いて歩こう」をハミングしながらマウンドに向かった。
最初の打者を三振に仕留めた。次打者に中前打を許したが、三振、遊ゴロで1回を無失点。「多分145キロは出ていたと思う。当時、145といったら速い」。「第1号なんて意識はなかった」が、今でも日本人最年少記録となる初登板を無事に終えた。
慌ただしく、試合を迎えていた。南海から野球留学し、1Aフレズノに配属。49試合で11勝7敗、防御率1・78の好成績を残した。9月からベンチ入り枠が40人に広がるため3階級特進。8月31日にカリフォルニア州フレズノからプロペラ機で西海岸のサンフランシスコを経由し、東部ニューヨークに駆けつけた。
「乗り換えのチケットをもらって、ホテルの名前の紙をもらっていただけ。日本だったら誰か迎えに来るよね」。パイロットに出発ゲートを聞き、空港からホテルも1人でバス移動。ホテルのチェックインにも手間取り「明日はハドソンリバーで沈んでいるかな」。不安の一晩を過ごすと、メジャー契約のサインは、試合の15分前。シーズン終了まで1700ドル(当時61万2000円)だった。
当時MLBは日本人がいないので報道も少なく、知っていたメジャー選手は、ベーゴマに刻印されたベーブ・ルースだけ。甲子園優勝を経験した法政二高時代、米国に憧れた理由は、西部劇の「ローハイド」をテレビで見て「アメリカってすごい。偉大だな」と感じていたから。当初は法大進学予定も、スカウトに来た南海の鶴岡一人監督に「(入団したら)アメリカに行かせてやる」と言われて翻意し、プロ入り。2年目に野球留学で新人2人とジャイアンツに派遣された。
メジャー1年目、快進撃を続けた。デビューから8試合連続で無失点。6試合目で初セーブを挙げると、9月29日の7戦目で初勝利。「延長で9回から11回まで1安打0点。日本にも来た小さいセンターのマティ・アルー(74~76年に太平洋所属)のサヨナラ本塁打で勝ったんだ」。日本でも未勝利だった投手が1勝0敗、防御率1・80。15回で15奪三振の好成績だった。
若手左腕をジ軍が放っておかない。南海に1万ドル(360万円)のトレードマネーを支払い、65年の契約を結んだ。帰国後、南海は1万ドルは功労金とし、保有権を主張し、日米を揺るがす大問題となった。
両国コミッショナーが協議し、65年は5月に渡米。45試合で4勝1敗8セーブ、防御率3・75。74回1/3で85三振。8月15日フィリーズ戦は「マッシー・デー」と銘打たれて初先発。「1、2回と2三振ずつ。よしと思ったら3回に崩れた」。打線が爆発して逆転勝ちで黒星を免れた。「終戦記念日にまた負けたのかと思っていたからチームが勝って良かった」。戦争の影響が色濃く残る時代だった。
2年目を終え、年俸3万ドル(1080万円)で残留オファーを受けた。「やりたかったよ。でも、鶴岡さんとの帰るという約束があったから。あと5、6年はできたと思う」。後ろ髪を引かれながら帰国した。
渡米早々から、米国生活を好んだ。「南海のキャンプは朝、ご飯とみそ汁、卵、メザシとあと何か1つおかずがあるぐらいだった」。しかし、米国はマイナーでも「卵焼きは好きなだけ取っていい。ポテトサラダとかオレンジのメロンとか。オレンジジュースなんて日本で飲めなかった。それも好きなだけ。ベーコンも2、3切れ」。食べ物の記憶は鮮明に残る。
今や72人の日本人メジャーリーガーが誕生し、大谷は史上初の「50本塁打&50盗塁」を目指す。パワーとスピードを兼ね備える姿は、通算660本塁打、338盗塁でチームメートだったウィリー・メイズをほうふつさせる。「メイズは100年以上のメジャーの歴史でもベスト10に入るぐらいの選手。打って、守って、走ってよし。俺が行った時は52本ホームランを打って、MVPを取った。桁違いだった。足は大谷の方が速いかも」。両者のプレーを目の当たりにしているだけに、貴重な証言となる。
■朝鮮戦争への召集なければ
「大谷の方がパワーがあるかもしれないけどね。すごい(スイング)スピードだから。あの頃はそういう(筋力トレーニング)のをやっていなかった。でも(メイズは)あの体(180センチ、82キロ)であれだけ打つんだからね。すごい」。メイズは660本だが、朝鮮戦争に招集されていなければ「ベーブ・ルース(714本)を抜いていたはず」とも言う。
大谷の日本ハム在籍時、引退後も自宅を訪れるなど交流を続けていたメイズのサインボールをあげたという。「ポケーッとしていたよ。(なぜもらったのか)分からなかったかもね」。当時、日本では投打二刀流のルースと重ね合わされていたが、メイズの名前を知らなかったとしても不思議ではない。
そのメイズが今年6月に93歳で死去した際は日米で大きく報道された。攻走そろう大谷との比較も増えた。「今は分かっているでしょう。球場でもお別れ会をやったし。ニュースも入っているでしょうから」と優しく笑った。
日本ハムの後輩でもある大谷には、期待も大きい。「33、34歳ぐらいまでは投手をやってもらって。100勝は無理かも知れないけど、打者なら長生きできるし、頑張ってもらいたい。今年は3割、50本、100打点、盗塁は30と予想していた。50本と50盗塁はいけると思う」。自らは志半ばで帰国した。「うれしい半面、帰国したのはすごく悲しい半面だった。今の子は契約してくれれば、なんぼでもプレーできる。俺は鶴岡さんとの口約束が心に残っていたから。裏切ることができなかった」。複雑な感情を吐露しながら、後輩の活躍を願っていた。【斎藤直樹】(敬称略)
◆村上雅則(むらかみ・まさのり)1944年(昭19)5月6日生まれ、山梨県出身。法政二から62年南海入団。64年春にジャイアンツに野球留学し、1Aで最優秀新人賞。同年9月1日にメジャー契約し、同日初登板。66年南海復帰し、68年最高勝率。75年阪神、76年から日本ハムでプレーし、82年引退。引退後は解説者や日本ハム、ダイエー、西武でコーチを歴任。現役時代は183センチ、83キロ。左投げ左打ち。



