日刊スポーツでは、28日に大阪市内で行われた「星野仙一氏お別れの会」の開催にあわせ、「ニッカンコム」で「星野さんの思い出」を募集しました。ここで一部を紹介します。多数の書き込みありがとうございました。

星野仙一氏の「お別れの会」で弔辞を述べる金本監督(撮影・上田博志)
星野仙一氏の「お別れの会」で弔辞を述べる金本監督(撮影・上田博志)

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 ★18年ぶりのリーグ優勝してくれてありがとう! 心から感謝してます。(峠颯一、10代男性、東京都)

 ★娘の小学校の前に、星野さんの行きつけの喫茶店がありました。下校の時間、娘たちがサインをもらおうと店の前で待っていると、星野さんは「1度、家に帰ってから来なさい。遅くなったらおうちの人が心配するぞ」と教育してくれたそうです。(もとさん、40代男性、兵庫県)

 ★ブレそうになった時、前へ前へに勇気づけられました。(ジン、50代男性、静岡県)

 ★幼少期から静岡県西部住まいで初めて行った野球場がナゴヤ球場でした。私が7歳くらいだったです。既に巨人ファンだったのですが星野投手は好きでした。おやじに星野投手のサインボールを買ってもらったのを覚えています。(かずあき、40代男性、静岡県)

巨人の王貞治を三振にうちとった星野仙一(中日)は「どうだ」と気合の表情を見せる(1978年4月5日撮影)
巨人の王貞治を三振にうちとった星野仙一(中日)は「どうだ」と気合の表情を見せる(1978年4月5日撮影)

 ★日本のプロ野球で一番将来を考えられていた方が亡くなられた事は、ファンにとっても大きな痛手です。思い出として3つ有り、2003年原監督退任時のフィナーレと2003年優勝インタビューと楽天で日本一になった時のビールかけ時の笑顔です。ご冥福をお祈り申し上げます。(とらとらふーちゃん、50代男性、京都府)

 ★2003年のマジック2で迎えた甲子園の広島戦でサヨナラタイムリーを打った赤星を熱く抱擁して迎える星野監督が忘れられません。それと優勝が決まった時のインタビューでの第一声「あーしんどかった」も印象的でした。(こっしー、20代男性、奈良県)

 ★厳しい目! 怖い目! 強い目!! 優しい目・・・そしていとおしい目! あなたの目を一生忘れません。(M・S、50代女性、東京都)

 ★現役最晩年の頃、外野への大飛球を好捕した若手外野手に対し、マウンドから帽子を脱いで深々とお辞儀する星野投手の姿を見ました。その姿を見たことで、監督時代の鉄拳も全て選手のためチームのためのものだと信じることができました。(50代男性、大阪府)

 ★いつの星野さんの言葉か忘れてしまいましたが、強く印象に残っているのが「迷ったら前へ出ろ」です。人生で迷った時、少なからず指針にさせてもらいました。特に個性が強かった、阪神監督時代までの星野さんが好きでした。楽天に行って以降はスマートな印象しかなく。ご冥福をお祈りします。(40代男性、兵庫県)

 ★ナゴヤ球場ラストゲーム後のスピーチが印象に残っています。この試合に敗れ、目の前で巨人の胴上げを観たあとでのスピーチ、いろんな思いがあったと思いますが「今日この場所でサヨナラを言いたくなかった」「ジャイアンツファンの皆さんおめでとう」「さようならナゴヤ球場、世界一のグラウンドだと思っています」「来年ドームで逢いましょう!!」短いスピーチで多くの気持ちが言葉として届きました!!(ポコ丸亭セクシー山崎、40代男性、東京都)

 ★初めて中日の監督になった頃の鉄拳制裁も辞さない荒々しい星野監督の姿が印象に残っています。その頃、阪神は暗黒時代初期でしたが、星野さんのような怖い人が監督だったら阪神もきっと強くなると思い、星野監督がにらみをきかせてる中日がすごくうらやましかった思い出があります。(トラッキー太、40代男性、大阪府)

 ★2003年の優勝したことです。阪神でプレーしていた赤星さんがサヨナラ打で星野さん(当時監督)が抱き合うシーンが印象シーンでした。(芝田伸、40代男性、兵庫県)

阪神赤星憲広(右)を抱きかかえる星野仙一監督(2003年9月15日撮影)
阪神赤星憲広(右)を抱きかかえる星野仙一監督(2003年9月15日撮影)

 ★ダメ虎を立て直し阪神タイガースを18年ぶりのリーグ優勝に導いたこと。(本名同じ、30代男性、京都府)

 ★私がシアトルに住んでいた時の事です。セーフコフィールドへイチロー選手の応援をしに行き、観戦中、下の娘を球場のトイレに連れて行った時、偶然星野監督にお会いし、一緒に写真を撮っていただけました。とても気さくにしてくださった事、本当に感謝しています。寂しいですが、安らかにお眠りになって下さい。(マリナーズ、50代女性、大阪府)

 ★本拠地開幕は家族4人でバックネット裏で観戦し、当時おなかに居た3人目は開幕投手だった田中将大選手と同じ将大と名付けました。選手達の燃え上がる闘志、人柄を育てたのは星野監督だったからと思ってます。大好きな監督でした。日本プロ野球のためにも、もう1度、日本代表監督としてユニホームを着て欲しかったです。生涯忘れることの出来ない名監督・闘将として天国から日本プロ野球を見守って欲しいと思います。(まさゆき、40代男性、茨城県)

 ★星野さんといえばやはり「リーグ優勝」の胴上げの言葉。「あ~しんどかった」「このタテジマでこの甲子園でみんなのまえで胴上げされて見たかった」。この言葉を聴き涙が出ました。感動したシーンでした。(あ~くん、40代男性、静岡)

 ★優勝した年、とっても感動しました。間もなく今年も始まります。見守っててください。(阪神監督してた星野さん大好き、50代女性、兵庫県)

 ★1987年青年星野の中日監督就任1年目、前半戦健闘はしていたもののチームの駒不足感、疲弊感は否めない。そんな8月9日の巨人戦。熱狂的中日ファンの自分も(どうする? もう先輩おらへんがや!)と嘆いていた矢先、なんと監督は地元の高卒ルーキー近藤真一を抜てき。(おいおい、ヤケクソ?)しかし、監督のこの覚悟がドラマ以上の内容を生む結果に。当時の中日には魂があり熱かった。星野監督良い時代をありがとう!(MOBO Hideki、50代男性、岐阜県)

 ★誰よりも選手のことを考えていた人だと思います。抗議に乱闘。とにかく闘う事を見える形で表していました。映像で何度も見る、宇野選手のヘディングの後、グラブをグラウンドにたたきつけるシーンは印象的です。そして、宇野選手を責めること無かったエピソードに、大きな心に感服しました。(ERIZA DE MAR、30代女性、東京都)

 ★楽天イーグルスの監督をされて選手1人1人を大切に思い、球場での姿、言葉にはいつもワクワクさせられました。宮城県(東北)に元気と笑顔を胸に優勝した時の『選手を褒めてあげて下さい!』声がふるえてました。あの時の、とびきりの笑顔忘れません。ご冥福をお祈りいたします。(野球好き、40代女性、宮城県)

日本シリーズ第7戦 楽天対巨人 日本一を決め胴上げされる楽天星野監督(2013年11月3日撮影)
日本シリーズ第7戦 楽天対巨人 日本一を決め胴上げされる楽天星野監督(2013年11月3日撮影)

 ★たくさんのストレスがあったはずなのに、全く表に出さず、人を気遣う。偉い人だ。(ブルータス35、50代男性、東京都)

 ★2003年の開幕戦後の映像で知る事にはなりましたが、グラウンドに出る前に、「桧山!」と大声で声をかけ、「neverneverneversurrender!」と声出しをさせたシーンです。ほとんど高校野球です。でも選手と心底から向き合ってらからこそ、こういう掛け合いが瞬間的にできたんだと思います。(浦和の猛虎、40代男性、埼玉県)

 ★2003年の優勝のシーンしかないでしょう! 赤星を抱きしめたシーンは当時小学生だった自分も胸が熱くなった。(名も無き猛虎魂、20代男性、神奈川県)

 ★88、99、03年のリーグ優勝、そして13年のリーグ優勝と日本一が忘れられません。感動を有り難う。(70代女性、愛知県)

 ★昔、星野仙一のオンラインレポートというサイトに投稿し、返事を頂いたことがあります。武田投手のFA移籍会見後に明大の島岡監督はどんな人でしたか? といった質問に驚くエピソードを教えてもらえました。(かみっち、50代男性、東京都)

 ★星野さんと言えばやはり鉄拳制裁などのイメージが強いですが、グラウンドを離れたときはめったに怒ることがないくらいの紳士を絵に描いた人だと聞きました。指揮官としてより人間として「仕事などでは一切妥協を許さず、それ以外では人に優しくする」べきことを教わった気がします。星野さん、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。(熊本県人、40代男性、熊本県)

 ★巨人との日本シリーズでの采配は気持ちの入った采配と見ていたものとしては感じていました。そういった意味でも日本を代表する監督だと思います。(野球小僧、40代男性、広島県)

 ★星野さんを初めて生で見たのは北京五輪代表の監督の時でした。タテジマのユニホーム姿を見た時の感動とタイガースのタテジマ姿を見られてなかった後悔が交錯したのを覚えています。そして半端ないくらいのオーラも感じました。(とらっきいた、40代女性、福岡県)

「お別れの会」の入り口に置かれたモニュメント(撮影・上田博志)
「お別れの会」の入り口に置かれたモニュメント(撮影・上田博志)