2010年の初夏、当時広告営業部員だった記者は、離島出身の上司から命じられた。村田兆治さんが提唱する、全国の離島中学球児による野球大会「離島甲子園」に協力することが決まり、同大会に関する紙面作りなどを担当することになったのだ。
同年(第3回)の開催地は、鹿児島・種子島。鹿児島県内で記者発表や野球教室を開催すると聞いて、すぐに鹿児島に飛んだ。村田さんへの顔合わせとともに、協賛者(社)も紹介してもらった。紙面化に向けて、協賛者に営業もかけた。村田さんにも、その旨を説明した「はず」だったが、「そんなつもりで、俺は紹介したんじゃないぞ!」と当初はよく怒られた。
後から考えれば、しっかりと筋が通っていないやり方をしていた。説明不足もあった。村田さんにも、真正面からぶつかっていなかった。言葉こそ多くないが、そのことをまだ20代半ばの若造に、教えてくれていた。いつしか、大会が終わるたびに「ありがとな」と声をかけてくれるようになった。
村田さんにとって、引退後のライフワークの中心ともいえたのが「離島」での活動だった。「離島甲子園」が実現したのも、長年にわたって足を運んでいたからこそ。その思いをいつも聞かせてくれた。そして何より、子どもたちに対しても「本気」だった。
「本物を見せるのが一番なんだ」。180度の開脚でストレッチもほどほどに、還暦を過ぎても、130キロ台のキレのある速球で、子どもたちと「対戦」するのが野球教室でも恒例だった。こちらからすると名球会の大投手。子どもたちからすると「おじいちゃん」だったかもしれないが、時には自慢の速球を打ち返され、「もう1球だ!」とさらに速いストレートを投げ込んだり、代名詞だったフォークを投げ込む情熱に、子どもたちも感化されていくのは手に取るように分かった。
第6回の長崎・壱岐大会まで担当した。サインを求められれば、必ず「人生先発完投」と添えたが、「責任を最後まで果たす」ことなのだとも教わった。途中、メディアの部署に立場が変わった時も「サラリーマンだから異動はある。そこでどう頑張るかだ」と言葉をもらったこともあった。マウンドに上がればうまくいくこともあれば、ピンチを招くこともある。最近は「ピンチ」だったかもしれない。あの村田さんが、どう切り抜けていくのか。まだまだその背中を見せてほしかった。【元「離島甲子園」担当、現芸能担当・大友陽平】



