日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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その人は、げたを鳴らし、首にマフラーを巻いてやって来る。少年時代に俳優、演出家、映画監督の宇野重吉(故人)によく声をかけていただいた。今は俳優、ミュージシャンでもある寺尾聰の父上といったほうがわかりやすいか。
最初は知らない雰囲気のあるオジサンだったが、出会いを重ねるうちに頭を下げるようにしつけられる。親から昭和を代表する名優であることを聞かされたのは、時がたってからだ。特に“言葉力”を大切にする俳優として知られた。
組織、チームを率いるリーダーは、どのように声をかければ部下の心に響くかを考えるものだ。プロ野球界も例外ではない。名監督と評価された指揮官が発信する言葉が選手操縦術の明暗を分けた。
その点、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任した野村克也は「言葉は力なり」と巧みに使いこなす“魔術師”だった。「失敗と書いて、『せいちょう』と読む」「小事が大事を生む」。現場取材では膨大な人生訓に耳を傾けた。
通算1565勝(1563敗76分け)は歴代5位、リーグ優勝5回、日本一3回。前年までヤクルトに在籍した指揮官の阪神移籍は電撃的だった。企業マニュアルにまで用いられた“ノムラ語録”は在阪スポーツ紙をにぎわせた。
しかし野村の名調子は取材陣に囲まれてベンチから動かず、グラウンドに出ない試合前も見受けられるようになった。そこで「新聞記者としゃべるより、助っ人とコミュニケーションをとるべき」といった論調の記事に火が付いた。
翌日、野村は「沈思黙考」と四字熟語を持ち出して取材を受け付けなくなった。球団側も各紙がノムラ語録を商品として扱っているはずではないかと言い分を主張したが、こちらも引き下がるつもりはないから平行線をたどった。
球団から好まれる記者とは、都合のいい記事を書いてくれてコントロールしやすい記者かもしれない。取材する側とされる側の関係を保つのは難しい。小さい頃の野村は新聞配達をしていた。メディアとの付き合いも百戦錬磨で、こちらの立場も察したのだろう。
ある時、横浜遠征でシティーホテルにこそっと拙者を呼び出して話し合いをもつのだった。そこにお茶の間で人気絶頂だったサッチーこと夫人の沙知代が、仕事帰りだったか、真っ赤なドレスで現れたのには、一瞬たじろいだ。
「あなた、うちのダンナの悪口書いたの」。そんなとがった声で始まった場は、すぐに野球の話で打ち解け、自然と和解に至った覚えがある。別れ際のサッチーは「よろしくね」と言って名刺裏に「笑って、美しく」としたためて去っていった。
トップを“裸の王様”にしてしまうと、チームはもろく崩れていく。阪神で手腕を発揮できなかったのはその点が大きかった気がする。野村は「戦うは勢いに求めて、人に責めず」と言い残した。「リーダーとは? 思想をもって戦うことだ」とも。名将との“衝突”にも学んだ思いは強い。(敬称略)



