プロレスラーの藤波辰爾(67)はリングに上がり続ける。9日にデビュー50周年を迎えたが、引退の2文字はない。「体が動く限りリングに上がりたい」と情熱は衰えない。連載最終回は「生涯現役」【取材・構成=松熊洋介】

50年を振り返った藤波は「いろんな人と話をするとよみがえってくるので年月は感じる。いろんな状況を見てきて、いい経験をさせてもらっている」と語る。89年のベイダー戦で腰を痛め長期離脱を強いられた。歩くのも困難で「選手生命が終わった」と引退もよぎったが、奇跡的に回復した。1年半後に復帰し、痛み止めを飲みながら二十数年戦い続けた。恐怖から手術をためらってきたが、6年前にメスを入れ、ようやく不安を取り除いた。

藤波 試合中はアドレナリンが出ていたので、分からなかったが、終わってからは痛みが出ていた。レントゲンでは首の骨とか頸椎(けいつい)がゆがんでいる。正常な状態で(リングに)上がっている人はいないのかなと。

それでも戦い続けるのは「プロレスが好きだから」。コロナ禍で試合の機会が減り、物足りなさを感じている。全盛期のパフォーマンスを披露するのは難しいが、気持ちだけは当時と変わっていない。

藤波 いい時を記憶しているから、思うように体が反応しないのがもどかしい。若い時は体が反応していたけど、今は「せーの」って言わないと体が付いてこないのが情けないなあ。

リングに上がることが健康のバローメーター。今でも週の半分以上はジムに通い、体を維持している。息子でプロレスラーの怜於南(れおな)とトレーニングをすることもあり、若い人を見ると張り合いたくなるという。

藤波 恥ずかしい姿ではリングに上がれない。負けてられないと意地を張ってしまう。息子は肌つやが違うし、うらやましい。風呂上がりでも水がはじくけど、自分は染み込んでいく感じ(笑い)。周りからは「もう60歳過ぎてるし、若い人と同じことやってたら化け物ですよ」と言われる。でももっと動けると思っているし、オファーがあればいつでも準備できている。

4月には久しぶりにドラディションを開催。人数制限こそあったが、コミュニケーションを大事にしてきた昔からの手法で自らもお客さんに声を掛け、ほとんど手売りでチケットを完売させた。10月からは50周年ツアーで全国を回る。

藤波 各地に思い出がある。レジェンドバスツアーとかいいね。つえをつきながらでもやってみたい。リングに上がったらあちこちばんそうこう貼って出てくるみたいな。それぐらいになるまで上がってみたい。

67歳。引退は考えていない。「リングに上がれば勝負ですから」と対抗心を燃やす息子との対戦は最後まで取っておくつもりだ。

藤波 70歳では間違いなくリングに立っている。(息子とは)今だったら負けない。知らない間にすごい差がついてたらどうしようと思うことはあるけどね。

最後に夢を聞いてみた。

藤波 昔、力道山先生が作ったリキ・スポーツパレスというのがあったが、そんなプロレスの歴史が全部詰まった会場を作って、そこでみんなを集めて試合をしたい。力道山先生が亡くなった後に猪木さん、馬場さんが魂を受け継いだ。馬場さんが亡くなり、プロレスラーのトーンが下がった部分もあった。これからは僕らがそれを後世に残していかないといけない。

藤波はこれからもリングに上で躍動し続け、レジェンドたちから受け継いだ魂を残していく。(おわり)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。