1989年(平元)、千代の富士は「最もすてきなお父さん」を選定する「89年度イエローリボン賞」を受賞した。

家族思いの横綱だった。

 83年(昭58)7月、久美子夫人(35)との間に長女優ちゃんが誕生した。地方巡業へ出ると、2カ月前後は家を留守にする。「自分の顔を忘れられないように」と、自分の写真の大きなパネルを作らせ、指さして「これがパパ」と教え込んだ。

 証言 元横綱千代の富士の九重親方 「子供が生まれた時は、一家のあるじという自覚から頑張るぞという気持ちになった。そういう気持ちにさせてくれた。お礼の意味からも、優勝したら子供を抱いて、賜杯と一緒に写真を撮りたいと思っていた」。

 84年(昭59)九州場所で10回目の優勝を決めた時、まず優ちゃんと写真を撮った。2場所前には左肩の9回目の脱きゅうで全休、前場所は215キロの小錦が旋風を巻き起こして、自分は10勝5敗に終わった。29歳で、限界説も出た矢先の優勝だった。

 証言 千代の富士の姉小笠原佐登子さん(42=福島町在住) 「子供と写真を撮るためにと、頑張ったみたいです。“長女だけ賜杯と一緒の写真があって、ほかの子のがなかったらかわいそうだ”と、言ったこともあります。子供には自然がいいんだと、毎年夏は福島町によこすんです」。

 30歳になると、秋場所から3連覇した。87年(昭62)九州には剛君(9)、88年(昭63)夏には梢ちゃん(8)と一緒に写真を撮った。

 年号が平成にかわった89年2月に三女愛ちゃんが生まれた。直後、33歳3カ月で迎えた春場所は、14日目に大乃国戦で左肩11回目の脱きゅう。14勝1敗で優勝したが、テーピングも痛々しく、表彰式に出るのもやっとだった。

 証言 九重親方 「あの時はなぜか無性に愛と一緒に写真を撮りたくなった。東京の女房(久美子夫人)に電話したら、まだ1カ月と1週間、首も据わってないから無理と言われた。それでも来いと呼んだんだ。愛を抱き、賜杯を左に置いて、写真を撮った。長女の優が“今度優勝したら家族全員で撮ろうね”と言ったのが、今も耳に残る」。

 「撮ろうね」は、夢に散った。6月12日、愛ちゃんは乳幼児突然死症候群で短い生を終えた。葬儀から2週間で名古屋場所だった。体重が4キロ減り、北勝海とのけいこでも簡単に腰から落ちた。首から数珠をかけて場所入りした。「そうすれば、愛が見守ってくれる気がしたんだ」。

 奇跡は起きた。12勝3敗で北勝海と並び、史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦となった。上手投げで、28回目の優勝だった。

 証言 元横綱北勝海の八角親方 「初めて本場所で対決して、まわし取られた時、けいこ場よりはるかに力が強いのに気付いた。腰を振ったが、まわしを切れなかった。これではたくさん優勝するはずだと、変に感心した瞬間に投げられた」。

 優勝決定戦の通算成績は6戦6勝だった。

 証言 父秋元松夫さん 「なぜ息子だけにあんなにも試練を与えるのかと、恨みましたよ。けれど試練を受けたからこそ、それを乗り越えたからこそ、あそこまでいった」。

 子供と一緒に撮った優勝賜杯の写真パネル4枚は、福島町の実家と千代の富士の部屋それぞれに、大切に飾られている。愛ちゃんは、星の世界からそれを見守る。【特別取材班】

 ◆場所制度 東西にあった相撲協会が1927年(昭2)に合併、東京2場所のほかに関西場所として大阪、京都、名古屋などで年2場所の本場所を行うことにした。その後は年2場所を原則としてきたが、途中敗戦前後の混乱により44年には3場所、46年に1場所ということもあったが49年からは場所数が増えた。52年9月まで春、夏、秋の3場所(秋は大阪)、53年からは56年までは4場所(初、春、夏、秋、春は大阪)、57年は5場所(初、春、夏、秋、九州)。58年から年6場所制が実施された。奇数月に本場所は開催され、1、5、9月が東京、3、7、11月が大阪、名古屋、九州と地方で開催されている。

※記録や表記は当時のもの