大相撲秋場所が11日に初日を迎える。秋場所だからこそ、幕内格行司の木村秋治郎(52=春日野)に聞いた。後編は、行司になってからの秋治郎の歩みを紹介する。【取材・構成=佐々木一郎】

力士志望だった秋治郎は、4度も新弟子検査を受けたが、合格できなかった。身長171センチ。合格基準まであと2センチを埋められなかった。行司になって数年後、巡業先で九重親方(元横綱北の富士)に声を掛けられた。

「お前、力士になりたかったんだって?」

「そうなんです」

「なんで力士にならなかったんだ。どうしたんだ?」

「身長が足りなくて…」

「そうか。当時、落とした親方のこと恨んでるだろう? 誰だ、その親方は? 柏戸さん(当時の鏡山親方)か?」

「いえ、(九重)親方です」

九重親方は、自らが身長測定係として秋治郎を落としたこと覚えていなかった。だが、九重親方はこう続けた。

「でもな、俺には先見の明がある。力士にならなくてよかった。お前はいい行司になる。頑張りなさい」

この言葉を、秋治郎は今も忘れない。「まさにそうです。力士になっていたら、今はないでしょうね。序二段か三段目でやめているかもしれません。行司も大変だけど、巡業に出て新弟子の仕事を見ると、力士は務まらなかったなと思いました。稽古をして、ちゃんこを作って、関取の世話をして、夜はコインランドリーに行って…。忘れ物をすれば怒られる。これは大変だなと」。

その分、行司として一人前になれるように必死だった。朝稽古は、上がり座敷から土俵に目を凝らした。

力士同士が土俵際でもつれると、師匠の三保ケ関親方(元大関増位山)から「今のどっち(の勝ち)だ?」と聞かれた。緊張感を持ちながら稽古を見続け、行司としての目を鍛えた。

本場所や巡業では、28代木村庄之助の付け人を務めた。28代庄之助は、所作が美しく、大相撲への造詣が深く、「名行司」と呼ばれた。秋治郎は行司として、人として多くを学んだ。

「協会からも部屋からも、誰からも信頼され、慕われる人でした。カミナリを落とされることもありましたが、10分もすればケロッと切り替えてくれる。謙虚な方でもありました」

ある巡業中のこと。横浜市の巡業先に前乗りした際、秋治郎は28代庄之助の筆を忘れたことに気付いた。あわてて前の巡業地に戻って探したが見つからない。なくしてしまったことを正直に打ち明けると、涙を流しながらその潔い姿勢をねぎらってくれた。

20歳のころの巡業中には、母満理子さんを交通事故で失った。自転車に乗っている時、後方から車にぶつけられた。秋治郎は加古川市にとんぼ返りし、通夜・告別式に参列して巡業に戻った。

この時のことを、若者頭の虎伏山(51)は覚えている。虎伏山は同じ三保ケ関部屋の1年後輩で、最高位は幕下2枚目。今も仲が良く、家族ぐるみでの付き合いがある。「弱音を吐いたりしないし、そういうところを見せない人。お母さんを早くに亡くしたけど、『葬式に出てきた』と言って、多くを語らずに仕事に戻っていました」。

行司部屋で机を並べる後輩の木村銀治郎(47)は「的確なアドバイスをくれる方です。注意されることもありますが、頭ごなしではなく、相手の立場に立って、自分がなぜ注意されたのかを考えさせてくれる。ですから、何か言われてもカチンとこない。そういう兄弟子です」と証言した。

28代庄之助からは人当たりの良さだけでなく、軍配も引き継いだ。「(28代庄之助が)新弟子のころから使っていたもので、三役に上がった時に(軍配の縁に)純銀をつけた。木は『シタン』というめちゃくちゃ堅い木なんです。本当に丈夫で、力士が落ちてきても割れにくい」。この譲り軍配を持ち、館内の隅々まで声を響かせる秋治郎は、名行司への道を着実に歩んでいる。

私生活では、相撲界の人脈が縁で結婚。第2子の長男・睦士(むさし)さんは、東京・浅草の小松竜道場で相撲に取り組んでいる。中3の今夏は、関東予選を東京都1位で通過し、北海道での全中に出場した。身長176センチ、体重115キロと体格面では父を超えた。プロ入りは未定だが、父の夢を息子がかなえる日がくるかもしれない。秋治郎入門時のエピソードは話したことがないが、父が力士になりたかったことは知っているかもしれないという。

そんな秋治郎も52歳となり、これからは加齢との闘いが始まる。基本的に年功序列の行司の世界は、定年に近づくほどに番付上位の取組を裁くことになる。「行司は若い時に三役や、大関、横綱を合わせるわけではなく、年を取ってから一番血気盛んな力士を合わせないといけない。だから、規則正しい生活をして、わきまえないといけません」。合わせる-。行司は取組を裁くことが仕事だが、その多くは「裁く」という表現を好まない。上から目線で勝敗を裁くのではなく、両者の呼吸を、鍛え抜いた男たちの力を、「合わせる」ことが仕事。そんな表現一つにも、力士たちへの尊敬が表れている。

現在、体重100キロを超える秋治郎は、減量も視野に入れている。今の師匠、春日野親方(60=元関脇栃乃和歌)には「日ごろから言動には注意して、仕事も大事だが日常も充実させていかないといけない」と指摘されているという。一般的に体力が下り坂になる年齢になるに従い、より慎重な体調管理は欠かせない。

以前と違って、取組一番にかける思いも変わってきた。若いころは1日10番以上を担当するが、出世に従って番数が減る。最上位、木村庄之助が裁くのは結びの一番のみだ。「昔は1日10番、15番とやってきました。そうやって一番一番の重みが分かってくる。今は1場所1場所、一番一番。それしか考えていないです」。

入門時の師匠はすでに退職し、今は歌手・増位山太志郎(73)として活躍している。「俺から言わせたら(秋治郎は)名行司ですよ。裁きもいいしね。土俵のまわり方もうまい。声もいい。しっかりちゃんと呼び上げる。あれは力士も引き締まりますよ。ああいう行司は、相撲に欠かせない。だから、秋治郎が出る時は見ていますよ。行司になるべくしてなったような気がするね」。

身長2センチが分けた人生。力士にはなれなかったが、周囲も認める行司になった。大相撲の主役は、あくまで力士。行司ら裏方は、その土俵に伝統文化としての重みを伝え、彩りを添える。取組と同時に、秋治郎の響く声、よどみない所作も堪能したい。

秋場所だから木村秋治郎に聞いた(前編)はこちら>>

◆木村秋治郎(きむら・あきじろう) 本名・中澤繁広。1970年(昭和45年)7月5日、兵庫県加古川市生まれ。三保ケ関部屋に入門し、1987年1月、木村鎮秋の名で初土俵。1993年1月、木村秋治郎に改名。大坂相撲の名行司・木村越後が若い頃に名乗っていたことが由来で命名された。2013年10月、三保ケ関部屋の消滅により春日野部屋へ移籍。現在は幕内格行司。