大相撲秋場所が11日に初日を迎える。秋場所だからこそ、「秋」つながりで幕内格行司の木村秋治郎(あきじろう、52=春日野)を紹介したい。現役行司最重量の107キロで、身長は171センチ。一部力士より体格に勝るほどで、もともとは力士志望だった。なぜ力士にならなかったのか。力士になれずに角界で過ごした36年。今、何を思うのか。前後編に分けてお送りする。【取材・構成=佐々木一郎】

大相撲の行司は一般的に、小柄な方が良しとされる。行司が小さければ、土俵上で力士の大きさがより引き立つからだ。その点、秋治郎は異色かもしれない。若いころは、その大きさを気にしたことがあった。

「体が大きいから、所作を小さく見せようとしたことがありました。そうしたら、当時の庄之助親方に言われました。『土俵に上がって、そんなことを気にしてはダメだ。大きく見せようとか、小さく見せようではなく、自然体でやりなさい』と」

今や秋治郎は、幕内格行司として若手の手本となる存在になった。声はよく通り、聞きやすい。足さばきは速く、動きもいい。何より誠実な人柄で人望が厚い。行司になってよかった。だが、この体格が示すとおり、もとは力士になるはずだった。

力士になれなかったのは、新弟子検査に合格しなかったためだ。15歳だった1986年3月、春場所前の検査を受けた。当時の体格基準は身長173センチ以上、体重75キロ以上。身長171センチの秋治郎は、2センチ足りなかった。

検査担当は、元横綱北の富士の九重親方。秋治郎はそっと背伸びをしたが「お前、何してんだ。ダメダメ。下ろしなさい」と怒られ、落とされた。

現在は基準が167センチ、67キロに緩和され、力士数が減っている事情もあり、基準に満たなくても目をつぶってもらえる。だが、当時は力士志願者が多く、厳格にふるいに掛けられた。

秋治郎は、こう振り返る。「3月、5月ともに受けましたが落ちた。『お前はもう顔を覚えられているから、7月は見送れ』と言われ、9月も11月もダメでした」。待乳山親方(元小結幡竜山)が付き添ってくれたが、他の親方から「また連れてきたの? もう連れてくるなって」と責められたほどだった。

あきらめて地元に帰るわけにはいかなかった。兵庫県加古川市出身。宝殿中の先輩でもある当時の清見潟親方(元幕内大竜川)にスカウトされた。清見潟親方は、横綱北の湖を輩出した三保ケ関部屋の部屋付き親方だった。秋治郎は中学3年間は柔道に打ち込み、加古川市で優勝した実績もあった。清見潟親方は「北の湖が入った時、ちょうどこういう体だったんですよ」「足の格好なんてそっくりです」「努力次第では、北の湖になるかもしれません」と殺し文句を連発。両親がその気になってしまうのも無理はなかった。上京する日、加古川駅には両親や友人が集まり「中澤くん、頑張れ」との横断幕まで出た。こんな経緯もあって、新弟子検査不合格のまま地元に戻ることは、とてもできなかった。

「田舎に帰って何をするんだと言われても何もできない。あの時は、この世で俺が一番不幸なんだと思っていました。まだガキですからね」

新弟子検査に落ち続けた間も、稽古はほかの力士と一緒に続けていた。7月ごろから、師匠の三保ケ関親方(元大関増位山)に、行司への転向を持ちかけられていた。そのたび「嫌です」「力士になりたいんです」と断ってきたが、気持ちは少しずつ傾いた。年をまたいでしまえば、年下が兄弟子になるかもしれない。迷いは続いたが、行司への道はやや強引に開かれた。

11月の九州場所中日のこと。ぶつかり稽古を終えると師匠に呼ばれ、本場所の行司部屋に行くことを指示された。

「今日ですか?」

「今日行くって言ってあるんだ」

付き添いの兄弟子は師匠から「ワイシャツを買ってやってくれ」とお金を渡されていた。

福岡国際センター内の行司部屋に行くと、力士のような体格の秋治郎は先輩たちに驚かれた。数日後、採用面接を受けるために理事室へ出向いた。元横綱栃錦の春日野理事長がトップだった時代。二子山親方(元横綱初代若乃花)、大鵬親方(元横綱)、出羽海親方(元横綱佐田の山)らそうそうたる顔ぶれだった。

ここでも力士のような体つきに目を見張られ、二子山親方には「おいおい、これ、どうしたんだ。んー? 行司?」と驚かれた。

春日野理事長には「お前、相撲好きか?」と聞かれ「はい、好きです。大好きなんです」と答えた。すると「それ一番大事なんだ。仕事も大事だけど、相撲を愛することが一番大事。まあ頑張りなさい」と言われた。この言葉が、採用通知だった。

力士にはなれなかったが、末は北の湖を期待していた両親は喜んでくれた。秋治郎は「師匠が責任を持って息子の道を考えてくれたわけです。三保ケ関部屋で違うレールを敷いていただいた。親はそれに感謝していました。相撲界は、衣食住全部を用意してくれる。親から仕送りをもらうこともない。そして出世させてくれる。ありがたかったです」と回想した。

かくして、秋治郎は行司として相撲人生をスタートさせた。その数年後、巡業先で九重親方(元横綱北の富士)から、信じられない言葉をかけられた。

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