毎年8月6日午前に大学世田谷校舎にある「慰霊碑」前で、盛大に戦没者の慰霊祭を行う。体育やスポーツの指導者を目指して日体大に入学しながら、学徒動員によって帰らざる人となった約400人の先輩たちに花を供える。で、平和の尊さを実感するのである。

ご出席される90歳前後の高齢の先輩たちの人数も、悲しいことに毎年減少する。もう戦争を知らない人たちばかりになりつつあるが、かかる式典は永久に続けていかねばならない。「平和への誓い」もあるが、戦争の悲劇を風化させてはならないと考えるのだ。

昭和30年代、日教組が大きな力を保持していたころ、スローガンに「教え子を戦場へ送るな」とあった。どうも戦場は、遠くにあると決めつけていた印象を受けた。このスローガンこそ、平和ボケの最たるものだと思った。

平和だったアフガニスタン。その国で私は3年間、体育教師をした。約3000人をカブール大学で教えた。ところが、帰国後の3週間後に共産革命が起こる。学生たちは武器を手に抵抗活動。あの平和はどこへ行ってしまったのか。このレジスタンス運動は、国民の生活の場で展開。戦場は遠くの地ではなかった。

内戦が激しくなり、政府軍が負けそうだと悟ったソ連(当時)は、79年12月に10万5000の兵をアフガンに派遣、本格的な戦争となる。私の教え子たちは、ムジャヒディン(アフガンゲリラ)となりソ連軍と対峙(たいじ)。「教え子を戦場へ送るな」と言われても、彼らの生活圏が戦場となったのだ。多くの教え子たちが、悲しいことに犠牲者になる。

第2次大戦後、教え子が戦争を経験し、戦場へ教え子を送った教師第1号が私となった。戦争の悲劇は大きすぎる。私には、平和ボケしているヒマはない。教え子への支援、それは国会議員になることだと認識する。で、私は96年10月、代議士になることができた。

小泉内閣で外務政務官に就任、アフガン支援の最前線の責任者になり、大胆な援助ができたのはうれしいことに小説的であった。