作家・三島由紀夫の割腹は、武士の作法どおりだった。当時、日本国中に衝撃が走った。古典的な自殺に知識人たちは、あれこれコメント。私自身は「死の美学」とは思わなかったが、大作家の劇的なサムライの死にショックを受けた。武士道を日本人に想起させる作法、みごととしか言えぬが、惜しい人を失った。

武士道は鎌倉時代に確立し、武士の心得のみならず、日本人の思想となった。私は日体大の武道学科に入学、「五輪書」や「葉隠」を読み「武士とは死に場所を探すこと」と学ぶ。サムライの心構えだ。三島由紀夫は、死に場所を自衛隊本部(現在の防衛省)に求めた。ちなみに柔道の阿部一二三選手は、武道学科出身、私の直接の後輩である。

武士道は、メード・イン・ジャパンかと思いきや、朝鮮半島からの伝播(でんぱ)、日本流にアレンジして完成した。半島からは、歴史的にも何もかも日本へ伝えられた。明治時代まで、まだ日本にきちんとした法律がなかった時まで、武士道によって日本社会の秩序が守られてきた。その習慣の一部や思想までも伝統として、私たちは現在も魂として持つ。

半島からは、文化や文化人のみならず、多くの武人たちも渡来してきた。埼玉県日高市の高麗(こま)神社は、1300年前に建立された。高句麗王の若光(じゃっこう)を主祭神としてまつる。使節団を若光が引き連れて渡来したが、高句麗が滅亡したため帰国できず、大和朝廷に官人として仕えたという。

この神社に参拝した政治家の6人が首相になったため、「出世神社」とも呼称される。歴史的に宮家の御参拝が多く、上皇・上皇后両陛下も御参拝された。で、私も参拝した。渡来人たちは、日本人と同化して私たちの血となった。多くの武人たちも渡来してきた事実を忘れてはならず、その中で武士道が誕生したのである。参拝者の中に太宰治、坂口安吾、尾崎紅葉、幸田露伴らの名前があるが、三島由紀夫の名はなかった。