「全部で7000平米。ここに野菜の作付けさ、するつもりだぁ」。いまはまだ深い雪に埋もれている畑地を前に、福島県川俣町の原子力災害対策課長だった宮地勝志さん(62)の声が画面を通して響いてくる。

東日本大震災は先週、発生から11年を迎えた。東海テレビの番組で、ずっと取材を続けている宮地さんをスタッフが訪ね、コロナ禍のため私はリモートでのインタビューとなった。

愛知県日進市から震災の翌年、川俣町役場に応援として派遣され、1252人に避難指示が出た山木屋地区の除染に追われる日々。そうした中で宮地さんは川俣町での永住を決意。3年前に役場を定年退職した。その宮地さんが選んだ新たな道は、まさに畑違いの野菜作り。仲間と営農法人を立ち上げ、主にイタリア野菜を栽培するという。チコリやリーキ、食べたことのない野菜の名が飛び出す。

その決意の裏には山木屋は寒冷地だが、じつは父祖の汗がしみ込んだ豊穣(ほうじょう)な土壌があった。だが人が戻るための除染が豊かな土を根こそぎ剥ぎ取ってしまった。

「いつかこの土地を青々とした畑に戻してみせる」。宮地さんの胸にはそれが本当の復興という思いがある。うれしいことに、山木屋にブドウの木を植え、いずれはワインを、という若者も現れた。ライ麦を栽培、パン作りを始めた女性もいる。

放射線同様、目に見えないウイルスにさいなまれたこの2年。「来年はおいしい野菜を、ぜひ食べに」という宮地さんの声が響く。

山の3月 雪が解けて どこかで芽の出る音がする-。遠く離れていても山木屋の景色が浮かんでくるような被災から11年の3・11だった。