東日本大震災から11日で丸8年を迎えた。宮城県女川町を襲った17メートル超の大津波で家族を失った阿部真奈さん(24)は、臨時災害放送局「女川さいがいFM」で初の高校生MCとして活動したことを契機に報道の道を志し、テレビユー福島の記者になった。被災者として取材を受ける側から、取材する側になった阿部さんが、記者として向き合う3・11を語った。この日は東京・国立劇場で政府主催の追悼式が開かれたほか、全国各地で犠牲者を悼む式典が行われた。

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津波に遭わなければ、記者にはならなかったかもしれない。8年前の3月11日の午前中、阿部さんは母由貴さんと口げんかした。ケーキ屋になりたいから専門学校に進みたいという阿部さんと、どうしても大学に行かせたい母。そして午後2時46分、東北に激震が走った。阿部さんは、母と一緒に乗った車ごと津波に流された。助手席のガラスが割れて脱出できたが、母は波に流されていった。

阿部さんは2カ月後の母の日、女川さいがいFMに初出演し「天国で安らかに見守って」と母に語りかけた。町民の声や必要な情報を発信するのと並行して報道各社の取材を受ける中、情報の重要性を感じて大学進学を決意。猛勉強の末に慶大に進学すると、大学で学ぶ傍らアナウンス学校に通い、卒業後の17年に福島のテレビ局、テレビユー福島に就職した。

社会部に配属された阿部さんは、被災地の南相馬市、大熊町、浪江町、双葉町を取材。女川にはなかった問題、福島第1原発事故に直面した。生活の営みがあったことすら想像できない、帰還困難区域の風景に恐怖を覚えた。小学校を取材した時は震災後に生まれた「3・11を知らない子どもたち」を目の当たりにし、月日の流れを感じざるを得ず、ショックも受けた。

そんな日々の中、「取材対象と近づこうと努力しても、自分の被災体験とは共有できない。相手の目線に立って取材する」と誓った。その裏には、学生時代に味わった取材される側の苦悩がある。女川の現状を伝えたい思い、責任感から取材や講演会の依頼を積極的に受けてきたが、大学2年の頃、“被災者”とひとくくりに見られることに重圧を覚えた。「1人の人間として見てほしい」。被災者としての自分を知る人がいない福島では、取材に没頭できた。

今は郡山支社で事件からスポーツまで取材するが、20年東京五輪が掲げる「復興五輪」には、違和感を覚えるという。福島では野球とソフトボールが開催されるが、「その言葉すら頭をよぎらない現実が双葉町、浪江町には目の前にある。五輪にたくさんの人が来ても、翌年に来てくれるかは私たちの伝え方にかかっている」と口元を引き締める。

目標は、21年の東日本大震災10年だ。「私に出来ることは記者として震災を見続けていくこと。同じ世代で、親を亡くした人を取材したことがない。そういう人の気持ちを知りたい」。続けて口にした。「お母さんは今の私を見たら、喜んでくれると思う。街中を歩いて、私のリポート映像を見せて回ったんじゃないですかね」。記者・阿部真奈の姿を母が見守っている。【村上幸将】

◆阿部真奈(あべ・まな)1994年(平6)7月3日生まれ、宮城県女川町出身。高校1年で東日本大震災に被災し母、祖父、めいを亡くす。女川さいがいFMの初代高校生MCとして活動、慶大総合政策学部に進学後、同局が閉局。停波した16年3月29日の最後の放送まで出演した。同4月に東京のコミュニティーラジオ「渋谷のラジオ」の番組「渋谷なう」のMCを務めた。17年にテレビユー福島入社、本社社会部県警担当を務め、翌18年から郡山支社。夕方のニュース番組「Nスタふくしま」でリポートなども担当。