新型コロナウイルスの蔓延により春の風詩ともいえる花見も自粛を余儀なくされています。そこで日刊スポーツ新聞社では「それでも、桜は咲く」と題し、桜の名所を紹介していきます。

日本の地に脈々と息づいてきた桜の美しさ、力強さ、人との関わりを写真を通じて感じていただけたらと思います(桜プロジェクト取材班)。

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「都会みたいに夜桜があったり、誰もがここに行くというような名所はないかな」。対馬の桜を撮影しに来たと島民に話しかけると、よくそんな言葉が返ってくる。

そして、「でも私は(オレ)は、ここが好きだな」と続く。

不要不急の外出禁止が呼びかけられた3月末、私は首都を離れ、長崎の離島・対馬の宿坊にたどり着いた。宿に禅寺を選んだのは特に理由があった訳ではない。ただ、この場所ならコロナ禍の中で閉塞(へいそく)感に包まれた都会と距離を置いて、純粋に被写体の桜と向き合えるのでは、という漠然とした期待感があった。

厳原港(いづはらこう)を見下ろす縁側で春の空気を胸いっぱいに吸い込むと、一陣の風がはらりと桜の花びらを吹いて飛ばした。対馬に桜が咲く頃、この港では出会いと別れが交錯する。進学や就職のため島を離れる若者。都会での務めを終え、数十年の時を経て帰ってきたかつての若者。

朝日できらめく港から、博多行きの第1便が「ボォーッ、ボォーッ!」と汽笛を鳴らした。腹にずしりと響くこの音は、乗客の胸中にある惜別の言葉か、前途洋々たる人たちへのエールか。

高校を卒業し、進学のため島を出る息子を見送る母は、汽笛を聞いて真っ赤に泣きはらした目からまた1粒の涙を流し、船が見えなくなるまで岸壁に立った。

1年に1度、桜の季節が巡ってくる島国ニッポン。大切な場所、大切な人、いつか抱いた初心、切なく散った願い。桜の花が咲いて散る短い時間の中で、私たちは何かを思い出し、そしてまた新しいスタートを切る。

誰もが認める名所なんて無い。けれども島のそこここに、誰かの大切な桜が咲いている。【加藤諒】