俳優の段田安則(63)に「そっくり」「区別がつかない」とSNSで騒がれ、そっくりさん投票までネットで行われている岸田文雄政調会長(63)に非運の武将「滝川一益」説が流れている。滝川一益って誰? 本当に似ているの? 歴史家で作家の加来耕三氏に聞いてみた。

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滝川一益は、知名度こそ明智光秀や羽柴秀吉に及ばないが、光秀、秀吉、柴田勝家、丹羽長秀とともに織田家の5人の宿老(重臣)の1人。NHK大河ドラマでは「秀吉」(96年)でも「真田丸」(16年)でも段田が演じているため、段田安則≒滝川一益、岸田文雄≒段田安則→岸田文雄≒滝川一益となったようだ。

政界ではこれに加え、安倍晋三首相の辞意が明らかになった8月28日午後、岸田氏が講演のため、新潟入りし、永田町にいなかったことから、織田家の跡目を決める「清洲会議」に間に合わなかった一益になぞらえているようだ。一益は本能寺の変を知っても、上州に兵を進めた北条との戦いのため、取って返すことができなかった。三谷幸喜監督の映画「清須会議」(13年)では北条に追われながら、清洲城を目指し、懸命に走り続ける男として描かれている。

加来氏は「似ていると思います。本能寺の変を知った秀吉が“中国大返し”でいち早く光秀を討ったのに対し、一益は変が起こるとも予想していない。ただ、禅譲を待っていた岸田さんに重なります。秀吉は起こり得る次の動きを読んで、織田家を簒奪(さんだつ)するつもりで大返ししています」と話す。足軽からたたき上げた秀吉はもちろん菅義偉官房長官になる。

となると、石破茂元幹事長は? 「本来の自民党の姿に立ち返るべきと主張しているのは石破さんです。清洲会議では本来の自民党とは織田家です。そう考えれば、跡目はわずか3歳の三法師などではなく、三男の信孝です。信孝を推し、負けた柴田勝家でしょう。正論は私利私欲の前に弱い。政治とは評論ではなく、思惑、打算です」(加来氏)。

清洲会議を主導した秀吉は権力の座を上り詰める。一方、勝家、一益は厳しい末路を迎えた。令和の政治ではどうなるのか。【中嶋文明】

◆清洲会議 織田家の跡目と領地の再分配を巡り、本能寺の変の25日後、尾張の清洲城で開かれた。信長、信長の嫡男信忠が自害したため、次男信雄と三男信孝の跡目争いとなったが、信雄はうつけ者で、信孝は母方の血筋が低かった。このため秀吉は信忠の遺児で3歳の三法師を擁立。通説では信孝を推した勝家と対立したとされる。

◆中国大返し 信長の命令で中国方面軍として、備中高松城(岡山)で毛利勢と戦っていた秀吉は、光秀が謀反を起こし、信長が自害したことを知ると、毛利と講和し、京に急行した。通説では6月6日に高松城をたち、12日に山崎(京都)に到着。1週間で約200キロ移動し、翌13日、山崎の戦いで光秀軍を撃破した。光秀の天下は6月2日から12日までの11日間で終わった。