宣誓。東日本大震災から10年。あの日、私たちは多くのものを失いました。いまだに心の整理がつかず、苦しい思いをされている方がたくさんいます。そして、この1年、日本や世界中に多くの困難があり、我々高校球児も、野球を出来ない時間がありました。奪われた時間は元に戻すことは出来ません。人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは、苦しくてつらいことです。しかし、この2つの出来事は、私たちにたくさんのことを教えてくれました。当たり前だと思っていた日常は、誰かの努力や協力で成り立っているということです。昨年は甲子園を目指せる大会ではありませんでしたが、今年はすべての学校に、夢の舞台甲子園に立つチャンスがあります。昨年の先輩方の思いと一緒に、そして、苦しかったこの1年を、ともに過ごした仲間と一緒に、憧れの甲子園を目指します。私たちは野球が大好きです。今、甲子園を目指して、野球が出来ることに感謝し、最後まで諦めずにプレーすることを誓います。

 

令和3年7月8日、石巻工業高等学校野球部主将、永沼賢人

 

 

多くの苦境を乗り越えた球児たちは、東日本大震災から10年分の思いを込めた。高校野球宮城大会の開会式が8日、楽天生命パーク宮城で行われ、石巻工の永沼賢人主将(3年=17)が選手宣誓した。甚大な被害にあった石巻市から12年センバツに同校が21世紀枠で出場。当時の阿部翔人主将(現仙台一野球部副部長)が選手宣誓の大役を果たしてから9年。舞台は違うが、震災10年の今大会、「石巻工主将」が再びの誓いの言葉を発した。

永沼主将は「阿部さん、今春の甲子園で宣誓した仙台育英の島貫丞主将、そして自分。思いはつなげたと思う。120点だと思います」と胸を張った。

宣誓文は、石巻工の3年生部員みんなの言葉を寄せ合った。6月25日の組み合わせ抽選会で全希望者26人の中から宣誓クジを引き当てた。3日後、部でミーティングを開き、黒板に原案を書き記した。

さらに12年センバツと21年センバツの2人が宣誓で語った言葉も引用した。「『答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいこと』。この言葉は入れたかった」。3人の共通ワードにもなった。

中学校体育館に避難した大震災から3日後に見た床上浸水の自宅の光景は、今でも鮮明に覚えている。ふるさとの姿は一変していた。悲しさに覆われた日々の中で、小学生だった永沼主将を楽しさに導いてくれたのが、家族に勧められて本格的に始めた野球だった。「震災でもコロナでも、みんなつらい思いをしてきた。キャプテンとして他人のために出来ることをやりたいと思った」。

永沼主将と三遊間でコンビを組む伊藤尚真遊撃手(3年=17)は、父保博さん(享年48)を津波で失った。宣誓文をみんなで話し合った際、伊藤が推したのは「仲間と一緒に」の一言だった。野球が好きだった父は常に笑顔で優しく、キャッチボールをしてくれた最愛の「仲間」だった。「仲間と一緒に甲子園で1勝という目標を目指して自分が頑張っていることは父も喜んでくれていると思う」。

部屋に置く宝物は父愛用のギター。伊藤が幼少期の手形も押してある。悩んだ時に父の存在を感じさせてくれる元気の源だ。「僕はギターではなくバットで。父が活躍を見てくれていると思う。将来は父のような優しく信頼される男になりたいと思っています」。卒業後は電気関係の企業に就職を希望している。

「野球が大好きです」。部員みんなが推した、この言葉も宣誓文に入れた。永沼主将は、みんなの思いを代表して、少し声のトーンを上げて、ここだけは、思い切り笑顔で伝えた。

永沼主将はどちらかと言えば、言葉で気持ちを伝えることは苦手なタイプだ。だが、1つの助言に背中を押された。今月5日、石巻工・利根川直弥監督を通じて、9年前に歴史に残る宣誓を行った阿部さんと電話。「『震災とコロナと今の状況は違うけれど、言いたいことを思い切って発して』とアドバイスをいただいた。自分も同じ石巻工の野球部主将。阿部さんは雲の上の存在ですけれど、負けていられないと思いました」と感謝する。会場で見ていた阿部さんも「震災から10年を迎えた宮城大会にふさわしい宣誓だったと思う。9年前のセンバツの言葉も引用してくれて、思いをつないでくれているんだなと感じ、うれしかった」。12年春の甲子園出場時に石巻工の監督だった宮城県高野連の松本嘉次理事長も「運命的なものを感じた。震災から10年、コロナの中で、選手たちの気持ちを代弁してくれていて感動した。先輩と後輩がつながっているなと思った」と10年間の思いも募らせていた。

先輩、後輩、仲間、家族、強い気持ちで支え合ってきた10年。今回の約2分30秒の宣誓文には、さらに絆を深める「言葉」が凝縮されていた。【鎌田直秀】