元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

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中学時代からのプロレスファンを隠して? 入社したが2年目に格闘技担当となった。プロレス会場でウオーミングアップの合間に現役バリバリの猪木さんにあいさつした。ムハマド・アリから「ペリカン野郎」と呼ばれたトレードマークのアゴを軽く突き上げ、手の汗をジャージーでぬぐってから握手されたことを覚えている。

翌年の1988年に猪木さんと女優の倍賞美津子さんの離婚を日刊スポーツがスクープした。生の声を取材するため、巡業先の兵庫・宝塚市に飛ばされた。若手選手のきつい視線の中で「この野郎」と怒られるのを覚悟したが、猪木さんはウエートトレーニングを中断し、淡々と笑顔も交えて心境を語ってくれた。

忘れられないのが95年に同行した北朝鮮の平壌で開催されたイベントだ。猪木さんの師匠・力道山が北朝鮮出身とされ、当時参院議員だった猪木さんは国賓級の歓迎だった。国交のない北朝鮮では何もかもが驚きの連続だったが、中でも通訳の日本語の流ちょうさにはびっくりした。「日本映画のビデオで覚えた」と通訳は説明した。猪木さんに「ひそかに日本に入国しているのでは」と問いかけたが無言だった。7年後の02年に小泉純一郎首相が電撃訪朝し、日本人拉致被害者5人を帰国させた。拉致被害者が日本語などの教育係に従事させられていたことが分かり、どこか合点がいった。

何度も助けてもらった。リングサイドの記者席にタイガー・ジェットシンらヒールレスラーが、わざと突っ込んで来るのを猪木さんは体を張ってガードしてくれた。おかげで無事に記事掲載されたことが何度もある。巡業先で夜の試合を前に宿舎の温泉に入っていると湯気の中から突然現れ、「おい、散髪に行くぞ」。猪木さんは数億円の借金まみれ。こちらが払おうとするとマジギレするので複雑な思いでゴチになったが寂しがり屋の一面もあった。

7年ほど前、イベントで久々に会った。サイン色紙をお願いすると「デパートの屋上のサイン会で1日に最高1000枚書いたことがある」と秘書が止めるまで一気に10枚以上を書き上げ、誇らしげに笑った。

参院議員時代には委員会質疑で度重なる注意にもかかわらず「元気ですか~!」と大音量で絶叫あいさつし、当時の安倍晋三首相を毎回笑わせ、外相だった岸田文雄首相を何度も驚かせた。数多くのトラブルから猪木さんを批判したプロレスラーや関係者は少なくないが一時的な怒りはあっても憎しみはないように感じる。やさしさと愛嬌(あいきょう)、憎みきれない「燃える闘魂」だった。猪木さん、長い間、ありがとうございました。【大上悟】