3冠馬ナリタブライアンなど多くのG1馬を管理した大久保正陽(おおくぼ・まさあき)・JRA元調教師が21日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。87歳だった。2016年1月19日から3回にわたって紙面で掲載された連載「明日への伝言 先人から競馬界の後輩へ」の復刻版をお届けします。

◇  ◇  ◇ 

先人たちは何を思い、何を伝えるのか。日刊スポーツ競馬面の新連載「明日への伝言 先人から競馬界の後輩へ」。第1回は3冠馬ナリタブライアンなど多くの名馬を手がけた大久保正陽元調教師(80)です。戦時中に父の厩舎で生まれ、戦後復興、高度成長、バブルの時代を騎手として、また調教師として生き抜いてきた名伯楽が、貴重な体験談を披露し、競馬界の後輩へメッセージを届けます。

ナリタブライアンは本当にいいレースをたくさんしてくれました。今、振り返ると、有名馬になったんだなと思いますね。管理していた当時は、夕食を食べていても電話が鳴れば、何かあったのではと落ち着かなかったですし、私自身はストレスもあったのでしょうか、手術も経験しました。

あの馬は栗東トレーニングセンターから出た、初めての3冠馬なんですよ。関西馬では先にシンザンという武田さん(武田文吾元調教師)が育てられた3冠馬がいましたが、まだ栗東にトレセンがなかった時代。シンザンは京都競馬場の厩舎から出た馬でした。

私自身はというと、鳴尾組なんです。と言っても、わからないかもしれませんが、今の阪神競馬場の前身、鳴尾競馬場(兵庫県西宮市)の生まれなんです。父(大久保亀治元調教師)の厩舎が鳴尾にあったのでね。栗東トレセンができる前は、各競馬場に厩舎地区がありました。今の現役調教師でも古い人には京都組、阪神組、中京組というそれぞれの出身があると思うけど、私は鳴尾組。戦争が激しくなるまで、小学2年生の2学期までは鳴尾で、昭和18年の12月に逆瀬川(同宝塚市)へ転居。6年生の夏休み前だから昭和22年かな、競馬が再開するということで、今の京都競馬場、淀へ移りました。

空襲が激しい時期でも、父に連れられて大阪、神戸によく出ました。昔の馬主さんや関係者がたくさん住んでいましたからね。爆撃の跡もよく見ましたよ。終戦直後は闇市なんていうのもあって、宝塚には進駐軍もいた。紳士的でしたよ。当時、逆瀬川と武庫川の中州にはダンスホールがあって、兵隊さんが多く住んでいた。川で泳いで遊んでいると「ボーイ!」と呼ばれて、チョコレートももらったかな。学校の先生からはもらうなと言われていたんだけど、物のない時代だったし、声をかけられると興味本位でね(苦笑い)。

宝塚は自然が豊かな場所でしたよ。炭酸温泉がたくさんあったし、炭酸水(ウィルキンソン)の会社、工場もあった。山にたきぎを取りに行った時には、今の阪神競馬場のあたりが爆撃されるのを見ましたよ。現在の阪神芝外回りコースの3~4角あたりには当時、牛乳屋さんがあって、よく買いに行きましたね。

あの頃は、競走馬の輸送も今とはまるで違った。京都で競馬の時、私は学校が終わってから泊まりがけで京都へ行ってましたよ。馬は集団で引っ張って行ったという話も聞いた。豊中の石橋から箕面街道を通って京都の山崎から淀に入ったと。2頭積みの馬運車も見たことはあるけど、当時はガソリンもあまりなかったから木炭自動車。切り替え方式もあった。坂は木炭では上がっていかないから、その時だけガソリンで。そう考えると、輸送の変貌ぶりはすごいね。今は海外に行くのでも、隣家に行くような感じだからね。

昭和22年に競馬が再開した頃は、今の天皇賞が平和賞というレース名だったんじゃないかな。そういう記憶があるね。ダービーも能力検定をしてから開催したと思う。戦時中、いい馬はどこかに隔離していたようだし、いろんな場所へ散っていた。国営競馬として再開したその当初、競馬には見捨てられた感じもあったんだけど、何かあれば皇族関係も来られていたし、大レースはだらしない格好では入場させないということもあった。当時から競馬は格式の高いものでしたよ。

父は、頑固でうるさいおやじでした(笑い)。飲んべえでね…。大久保亀治なので普段は大亀、大亀(だいかめ)なんて呼ばれていたけど、飲んで失敗すると“泥亀”なんて言われ方もしていたかな(苦笑い)。そんな父から騎手になるための試験を受けろと言われたのは、大学に入った頃でしたね。(つづく。取材・構成=伊嶋健一郎)

(2016年1月19日付 日刊スポーツ紙面より)

【大久保正陽元調教師 復刻連載2】はこちら>>

【大久保正陽元調教師 復刻連載3】はこちら>>