ナイスネイチャ。今年49歳になる僕にとっては「青春の名馬」だった。

僕が競馬に興味を持ち始めたのが、1990年。その年の12月2日、京都でデビューしたのがナイスネイチャだった。ちょうど、その年の有馬記念は「オグリキャップ、引退レースで奇跡の復活」で沸き上がった。そんな時代に、ターフへ登場した。

同世代には、あのトウカイテイオーがいた。テイオーとネイチャ。G1・4勝のテイオーに対して、ネイチャは0勝。どう見ても、戦績ではかなわなかった、と思っているファンも多いはず。だが、テイオーとネイチャは4度直接対決をして、その結果だけをみると「2勝2敗」の五分だった。

初対戦の91年若駒Sはテイオー1着、ネイチャ3着。翌92年天皇賞・秋はテイオー7着、ネイチャ4着。92年有馬記念はテイオー11着、ネイチャ3着。そして93年有馬記念がテイオー1着、ネイチャ3着だった。ナイスネイチャが、いかに安定した成績を残していたか-。同世代の“カリスマ”との対戦成績を見て、再認識した。

トウカイテイオーは、その93年有馬記念を最後にターフを去った。だが、ナイスネイチャは、それからも戦い続けた。94年1月AJCCから、96年11月アルゼンチン共和国杯まで18戦。その中には、実に17戦ぶりの勝利となった94年高松宮杯も含まれているし、61キロの酷量を背負った96年ダービー卿CTもある。テイオーという強力なライバルが引退した後も、競馬ファンに魂の走りを見せ続けたのだ。通算41戦7勝、その戦績以上にファンの心に残る馬だった。

引退した後の存在感は、言わずもがなだろう。晩年は「ウマ娘」フィーバーも重なり、多くの年代のファンから注目を集め、後輩の引退馬支援でも、かけがえのない馬になった。シルバーコレクターでも、ブロンズコレクターでもない。35歳まで頑張って生き抜き、天国に逝ったナイスネイチャは、まぎれもなく“名馬”だった。【木村有三】