垂井駅に降り立ったものの、日曜日で町営バスがなく、どうやって4キロも先の新垂井駅まで行くか途方に暮れていた私だが、思わぬ「秘密兵器」を関ケ原の戦いにも参加した武将から授かった武器のおかげで無事到着することができた。話せば話すほどややこしい「一方通行」の東海道本線は、駅こそなくなったものの、特急と貨物列車のみが走る風変わりな区間として今も現役だ。(3月15日の訪問)

 
 

垂井駅から新垂井駅跡までは約4キロ。ただし真っすぐ一本道ではない上、初めて歩くことを考えると1時間以上かかると予想される。タクシーはいたので往路はタクシー、帰路は徒歩(おそらく現地はタクシーが流しているような場所ではない)と腹をくくったところで目に飛び込んできたのが駅前にある垂井町観光案内所(写真1)のレンタサイクル。

勾配を避けるための新垂井線の方が高い所を走っているのは想像できたが、それほど厳しい上り坂はないという。なら決まりでしょう。1回500円。タクシーより、はるかに安い。偶然とはいえ、大垣で一杯やらなかったことで自転車可能だ。観光案内地図までいただいて親切に場所もうかがった。自転車の名前は「えけい号」。安国寺恵瓊に由来していることはすぐ分かったが、ここは関ケ原ではありませんよね…。

〈1〉垂井の駅前にある観光案内所
〈1〉垂井の駅前にある観光案内所
〈2〉30分かけて、線路と駅跡が見えてきた
〈2〉30分かけて、線路と駅跡が見えてきた

「陣地は垂井だったのです」と教えてくれた。後で布陣図を見ると、なるほど毛利秀元、吉川広家ら毛利一族で南宮山の現垂井町に陣取っている。では早速出陣じゃ~、と景気よくスタートしたのはいいけれど、最後に自転車をこいだのは、もしかすると昭和時代かも。おそらく見ている人にとっては「怖い運転」だったに違いない。超低速走行から停止しようとして、なぜか転倒したし(汗)。私よりはるかに年上と思われるおじいちゃんが「大丈夫?」と声をかけ、さっそうと自転車で走り去っていったのは少し悲しかった。

そんなこんなで車の多い道を避けながら30分かけて線路と踏切が見えてきた時はうれしかった(写真2)。タクシーだったら、これほど感動しなかっただろう。病院が目印なので分かりやすい。駅舎と駅前広場があったと思われる場所はフェンスに覆われて入れない(写真3)。ただホームは30年以上を経ても残っていて、わずかに見ることができる。戦時中にできた下り専用ホームはもちろん1面のみである(写真4~6)。

〈3〉かつて駅舎があった場所はフェンスで覆われている
〈3〉かつて駅舎があった場所はフェンスで覆われている
〈4〉使用されなくなったホームは今も残っている
〈4〉使用されなくなったホームは今も残っている
〈5〉廃駅から30年以上が経過して雑草で覆われている
〈5〉廃駅から30年以上が経過して雑草で覆われている
〈6〉ホーム跡から踏切をはさんだ関ケ原寄りには保安用と思われる留置線がある
〈6〉ホーム跡から踏切をはさんだ関ケ原寄りには保安用と思われる留置線がある

前回の記事で「戦後すぐに下り線が復活した」と書いたが、厳密に言うと間違いだ。引きはがされたレールの場所に再び敷かれたのは「垂井線」という新たな支線。東海道本線の下りはあくまで新垂井線だ。新垂井線だの垂井線だのややこしいが、要は上りだけの線路と並んで、もう1本、上りも下りも走る単線が敷かれたということ。

垂井線は原則的に下り電車が走るが、関ケ原始発の上り電車は配線の関係で今も垂井線を走るため、事情を知らないと右側通行(列車は基本的に左側通行)で逆走しているように見えてしまう。手元に1956年の時刻表(復刻版)があるが、上り線は垂井駅、下り線は新垂井駅のみが表示され、垂井線は東海道本線の支線として別ページに記されている(写真7、8)。東海道本線の下り線はあくまでも新垂井線という認識である。

〈7〉1956年11月の時刻表
〈7〉1956年11月の時刻表
〈8〉当時の時刻表では垂井線は東海道本線の支線として別掲載されている。垂井発着の列車もあった
〈8〉当時の時刻表では垂井線は東海道本線の支線として別掲載されている。垂井発着の列車もあった

はがしたレールが戻ったのだから、そのまま下り線にすればいいのでは? と思う方もいるかもしれないが、戦後間もない時期のものでスピードが出せない規格となっている。それゆえ今も特急は下り本線つまり新垂井線を走行する。ただ途中駅で垂井の中心部からも離れた下りしかない駅、つまり新垂井は利用者が減って廃駅となった。

〈9〉この日の相棒となった「えけい号」とホーム跡
〈9〉この日の相棒となった「えけい号」とホーム跡

新垂井駅跡で相棒の「えけい号」とぼんやりしつつ休憩(写真9)。いつの間にか撮り鉄さんと思われる方の姿があった。特急の通過には時間があるので貨物列車が来るのだろう。私も走るところを見たかったが、行き当たりばったりで来たため時間がなく、雨もポツポツ来たので撤退することに。武将というより外交僧、政治僧だった安国寺恵瓊は関ケ原では西軍として敗れてしまったが、私には実に頼りになった。

〈10〉垂井といえば軍師・竹中半兵衛。駅前に銅像がある
〈10〉垂井といえば軍師・竹中半兵衛。駅前に銅像がある
〈11〉関ケ原駅のホームで。鉄道の歴史舞台でもある
〈11〉関ケ原駅のホームで。鉄道の歴史舞台でもある

垂井町文化財保護協会の「垂井の文化財」によると、新垂井線は複数のルート候補から選ばれ、戦時体制の突貫工事で、なおかつトンネルの崩落も起きる難工事だったという。周辺に広がるのは住宅地と農地。ホーム跡がなければ、ここに駅があったとは誰も思わないだろう。緩いながらも下り坂ということで帰路はわずか15分で到着。町の中心部を流れる相川沿いの桜はまだまだの季節だったが、道も把握でき、自転車にも慣れた(?)ことだし来年の桜の季節は貨物列車の時刻も調べてゆっくり来よう、そんなことを考えながらペダルをこいだ(写真10、11)。【高木茂久】