JR阪和線支線の通称羽衣線と南海高師浜線は「会社の異なる短距離支線の乗り換え」ができる全国でも珍しい場所である。ともに高頻度運転されていて、大阪市内からの距離を考慮すると訪問難易度は限りなくゼロながら、乗車時間は合わせて10分にも満たない貴重な存在。支線シリーズ第7弾はその高師浜線。地元の熱意で残った駅舎があり、高橋大輔さんらの熱意で残ったスポーツセンターへ導く1・5キロでもある。(訪問は3月13日)

路線名は終点の駅名から来ているが「たかしのはま」と読む。「の」が入るのがポイントで意外と読めそうで読めない。路線距離はわずか1・5キロ。羽衣線より短いが、私鉄には短い支線は結構ある。


〈1〉高師浜線の起点となる羽衣駅
〈1〉高師浜線の起点となる羽衣駅
〈2〉高架に向けた工事中のため羽衣は仮駅舎で営業している
〈2〉高架に向けた工事中のため羽衣は仮駅舎で営業している

ただし乗車には予想外に手間がかかる。朝夕のラッシュ時には1時間に4本、昼間は3本の運行があるので運転頻度は問題ないが、問題は乗り場までの距離である。始発となる羽衣駅は現在高架工事中で仮設営業。本線下り(和歌山市方面)ホームのみが高架となっているため、JR羽衣線の東羽衣駅から乗り換える場合は踏切を渡って上りホームの改札に直接入る方が分かりやすい(写真1、2)。


〈3〉本線はパタパタの案内表示。高師浜線は固定表示である
〈3〉本線はパタパタの案内表示。高師浜線は固定表示である
〈4〉高師浜線ホームまでは距離がある
〈4〉高師浜線ホームまでは距離がある
〈5〉切り欠きホームに2両編成のワンマン車が待つ
〈5〉切り欠きホームに2両編成のワンマン車が待つ
〈6〉東急車輌の大阪工場で50年以上前に作られたようだ
〈6〉東急車輌の大阪工場で50年以上前に作られたようだ

改札口付近と上りホームにある案内表示は希少価値が高まるフラップ式いわゆる「パタパタ」である(写真3)。ただし高師浜線は行き先がひとつで優等列車もないのでパタパタの出番はない。そして高師浜線ホームまでは結構歩く。先にある切り欠きホームで待つのが2扉の2両編成ワンマン車(写真4、5)。50歳を超えている。東急車輌-大阪とあるのは、今はない鳳の東急車輌大阪製作所で製造されたものだ。私の認識では同所は東急車輌としては約3年しか車両を作っていないので、そうだとすると貴重な「名札」だといえる(写真6)。


〈7〉高師浜の駅名標
〈7〉高師浜の駅名標
〈8〉高師浜は高架の行き止まり構造
〈8〉高師浜は高架の行き止まり構造
〈9〉階段を下りて地上の駅舎に行く構造
〈9〉階段を下りて地上の駅舎に行く構造
〈10〉地元の熱意で残った高師浜の駅舎
〈10〉地元の熱意で残った高師浜の駅舎
〈11〉駅舎を横から見る
〈11〉駅舎を横から見る

そんなことを考えていると、あっという間に発車してあっという間に高師浜に着いてしまった。わずか3分。羽衣駅の入り口から高師浜線ホームまでの徒歩時間よりも短いぐらいだ。その高師浜、ホームは高架だが駅舎は地上に高架以前からのものという構造となっている。古風にしてオシャレなたたずまい(写真9~11)。駅舎のステンドガラス(現在はレプリカ)が周囲の閑静な住宅街に溶け込んでいる。一帯については駅前の説明板が詳しい(写真12)。


〈12〉駅前にある付近の解説板
〈12〉駅前にある付近の解説板

明治時代の日露戦争時、付近に捕虜収容所が設置され、多くの捕虜がやって来た。当時の高石村の人が外国人をどのぐらい見たことがあったかは分からないが、大騒ぎになったことだけは間違いない。その後、軍の施設となったが民間に払い下げられ住宅地となった。新興住宅街の誕生だが、その住民の足として敷設されたのが高師浜線である。付け加えると文字通り、当時は浜に近かった。だから大正期の開業と古い歴史を持つ。

支線というのは本線と垂直のような形で敷かれることが多いが、高師浜線はあまり角度がない。事実、本線の高石と高師浜は歩いても約10分と近い。不思議な支線は、そんな経緯で生まれた。

駅舎も当時からの姿を残している。1970年にホームが高架化された際に姿を消すことが決まっていたが、貴重な建物だからという地元の方の陳情で残った。戦後の高架ホームに大正からの駅舎という形はそのためだが、現在ならいざ知らず、高度経済成長で日本中の都会の光景が変わった50年も前にそのような運動があったことには敬意を表すしかない。


〈13〉年季の入った臨海スポーツセンターへの案内板
〈13〉年季の入った臨海スポーツセンターへの案内板
〈14〉高師浜駅の周辺案内図。分かりやすい
〈14〉高師浜駅の周辺案内図。分かりやすい

当駅は府立臨海スポーツセンターの最寄り(写真13)。一時閉鎖の危機に陥ったが、練習拠点としていたフィギュアの高橋大輔選手らを通じた寄付で残ったことは記憶に新しい。実は私が高師浜線に乗ったのは二十数年ぶり。同センターに仕事で来たのは覚えているが、恥ずかしながら何のイベントだったのか全く思い出せない。ただ駅前の年季の入った案内のおかげでたどり着けた気がする(写真14)。


〈15〉高架に沿った遊歩道を歩く
〈15〉高架に沿った遊歩道を歩く
〈16〉伽羅橋駅の入り口
〈16〉伽羅橋駅の入り口
〈17〉伽羅橋の駅名標
〈17〉伽羅橋の駅名標

さて、わずか1・5キロの高師浜線には中間駅が存在する。伽羅橋(きゃらばし)。こちらも難読だ。付近の橋から名付けられた(現在は移設)。交差点の名前にもなっている。高師浜から徒歩で目指す。前回も時間があったので歩いた。歩くといっても500メートルほどの散歩レベルだ。高架の1線駅だが、なかなか味わい深い。ただ周辺は大きな変化が訪れている(写真15~17)。


〈18〉1面1線の伽羅橋のホーム
〈18〉1面1線の伽羅橋のホーム
〈19〉駅前の公園閉鎖を告げる案内
〈19〉駅前の公園閉鎖を告げる案内

小さな駅ながら、駅前にはちょっとしたロータリーと公園があったが今は閉鎖されている。高架化に伴う措置だ。50年前、早々に伽羅橋~高師浜が高架されながら羽衣~伽羅橋は地上線のままだった。羽衣が地上駅だったからだ。その羽衣駅は、いよいよ完全高架化される。それに伴い高師浜線も高架化されるが、工事のため5月22日から約3年間、運行休止となる(代行バスで対応)。今回訪れたのはしばらく見られない風景に出合うことと、しばらくできない支線乗り継ぎ体験をするためだった。3年後の高架駅と高架線からの新たな景色が待ち遠しくもあり、踏切も含めた現在の景色が名残惜しくもある、ちょっと複雑な気持ちだ(写真18、19)。【高木茂久】