和歌山線の旅は和歌山県に入った。和歌山県と奈良県側から、1900年ちょうどというから明治33年に全線開通した路線は和歌山県側も歴史にあふれた場所と駅舎が今も残る。最後は「元」和歌山線の重要駅。今も当時の息吹を感じさせる駅舎と遺構が残っていた。(訪問は7月10、11日)

フリーきっぷを持っているため、阪和線に乗って帰宅し翌日、早起きして再び和歌山に来ることも可能だったが、和歌山泊とした。東口のホテル。にぎやかな繁華街となっている西口と異なり、かわいい駅舎の東口周辺は静かだが、ホテルは駅近くに並んでいる。

和歌山線と和歌山電鐵の乗り場は東口が近い。それでも7時半には和歌山線ホームに立ち、奈良県方面に向けて出発である。(写真1)

〈1〉和歌山駅東口の駅舎
〈1〉和歌山駅東口の駅舎

和歌山からの乗車は随分と気が楽だ。昼間は1時間に1本の和歌山線だが、和歌山~粉河間は30分に1本の運行がある。訪問駅が多すぎて、すべて紹介というわけにはいかないが、いくつかをピックアップしていこう。

まず「ここだけは絶対」だったのが高野口である。文字通り高野山参詣への入り口で、その後に現在の南海高野線ができたことで、その座を譲ることになるが、駅はにぎわいを見せていたころの面影が残る。財産票によると明治45年からの駅舎内は広く、ホームもかつては2面3線だったことが分かる。ホーロー文字はいつからだろうか。国旗掲揚台と思われるものも残る。(写真2~5)

〈2〉立派な木造駅舎が残る高野口駅
〈2〉立派な木造駅舎が残る高野口駅
〈3〉高野口の財産票
〈3〉高野口の財産票
〈4〉ホーローの文字に味がある
〈4〉ホーローの文字に味がある
〈5〉国旗掲揚台と思われるものも残る
〈5〉国旗掲揚台と思われるものも残る

その高野口は橋本市にあるが、市の中心駅はもちろん橋本。前述した南海高野線との乗換駅はこちらとなる。以前は同じ改札内で乗り換えができるようになっていた。利用者は圧倒的に南海が多いが、奈良県の五条に並ぶ運行上の重要駅で管理駅でもある。(写真6、7)

〈6〉南海高野線との接続駅である橋本駅
〈6〉南海高野線との接続駅である橋本駅
〈7〉かつては同一改札内だったが今はJRと南海が別となっている
〈7〉かつては同一改札内だったが今はJRと南海が別となっている

笠田は「かせだ」と読む。大正14年の財産票。ユニークなのは駅舎と逆側にある笠田高校の生徒への便宜を図るため、専用改札口が設けられていること。手づくりの駅名標は生徒さんによるものだろうか。(写真8~10)

〈8〉笠田駅の駅舎
〈8〉笠田駅の駅舎
〈9〉笠田高校の生徒専用の改札口
〈9〉笠田高校の生徒専用の改札口
〈10〉笠田駅の手づくり駅名標
〈10〉笠田駅の手づくり駅名標

打田(うちた)も同様のつくりだ。立派な駅舎の財産票は大正4年。しかし逆側のホームからも出入りできるよう簡易型の入り口がある。この駅でもうひとつの注目は跨線橋。一見すると普通だが、よく見るとホーム同士を結んでいるのではなく、ホームの外同士をつないでいる珍しい光景を見ることができる。(写真11~13)

〈11〉打田駅の木造駅舎
〈11〉打田駅の木造駅舎
〈12〉反対ホームにある簡易駅舎
〈12〉反対ホームにある簡易駅舎
〈13〉ホームを結ぶ跨線橋は駅の外にある
〈13〉ホームを結ぶ跨線橋は駅の外にある

粉河は冒頭で記した通り、一部の電車が折り返す。コンクリートの駅舎だが、ホームでは随分な文字案件を目にできる。(写真14、15)

〈14〉コンクリート駅舎の粉河
〈14〉コンクリート駅舎の粉河
〈15〉ひらがなと漢字。それぞれの文字に特徴がある
〈15〉ひらがなと漢字。それぞれの文字に特徴がある

和歌山線においては目を引くピカピカの施設を持つのは岩出。岩出市の中心駅で改修されたばかりの駅舎に和歌山線では貴重なバリアフリーのエレベーターが昨年設置された。自動改札機とみどりの窓口設置。岩出といえば、なんといっても先日の東京五輪で四十住さくらさんがスケートボードで金メダルを獲得したことが記憶に新しい。(写真16、17)

〈16〉改装された岩出駅
〈16〉改装された岩出駅
〈17〉みどりの窓口と自動改札機が設置されている
〈17〉みどりの窓口と自動改札機が設置されている

さて今回、和歌山線をゆっくり回ったのには理由がある。近年、歴史遺産とも思える木造駅舎が次々と簡易化しているからだ。特に無人化された駅に目立つ。老朽化、税金などいろいろな要因はあるのだろうが、何十年、駅によっては100年もの間、地域を見守ってきた駅舎が簡易化されてしまうのは寂しいものである。また本数が多いと書いた粉河~和歌山間については10月のダイヤ改正で1時間に1本に減便されるという。こちらはコロナ禍によるもので全国的な傾向だが、やはり寂しい。

和歌山まで戻った後、阪和線に乗り換えて1駅。紀伊中ノ島で降りる。現在、和歌山線は阪和線に近づいたあたりでカーブを描くように和歌山駅に向かっているが、以前は今の紀和駅へと真っすぐ走っていた。なぜなら今の紀和駅が和歌山駅だったからだ。今の和歌山駅は東和歌山を名乗っていたが、阪和電鉄(現在の阪和線)が大阪から線路を東和歌山まで伸ばした際、和歌山線との交差あたりに設けられた阪和中之島駅に乗換駅として和歌山線の駅もつくろうと阪和中之島駅をずらして1935年に紀伊中ノ島駅ができた。

東和歌山の重要性が増し、和歌山駅と改称されたのは戦後20年以上が経過してからで(和歌山駅は紀和駅となった)、現在の駅近辺の栄えぶりを考えると意外と新しい。和歌山線の線路も現在のものとなり、紀伊中ノ島付近の和歌山線は支線を経て廃線となったのは1974年のことである。

ただし駅舎は開業当時のまま残った。今は無人駅だが風格ある建物は当時の重要性を感じさせるもの。和歌山線のホームも一部が残存する。旧ホームに立つと明治から昭和、平成を経た路線の長い歴史を感じるのである。【高木茂久】(写真18~21)

〈18〉かつては乗換駅だった紀伊中ノ島駅
〈18〉かつては乗換駅だった紀伊中ノ島駅
〈19〉内装も凝ったものとなっている
〈19〉内装も凝ったものとなっている
〈20〉紀伊中ノ島の財産票
〈20〉紀伊中ノ島の財産票
〈21〉今も残る和歌山線ホーム
〈21〉今も残る和歌山線ホーム

※和歌山線とそれに連なる桜井線の車両といえば105系を想像する人が多い(写真22)。国鉄時代からローカル電化区間で活躍してきたが、新型車両227系の登場により、2019年に姿を消した。

〈22〉かつて和歌山線、桜井線の主力だった105系(2019年4月)
〈22〉かつて和歌山線、桜井線の主力だった105系(2019年4月)