高校野球の地方大会が7月末で終わった。球児にとって短くもあり、長くもある濃密な3年間。日刊スポーツで「1年目の夏」を体感した新人記者が、盛夏を振り返る。
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高校野球取材を始めて2週間ほどたったある日、公立の伝統校水戸商(茨城)を訪れていた。「水商(同校の愛称)は3枚の投手が良い」といううわさを聞きつけ、取材に訪れたのだった。
野球部員から「ちわっす」と丁寧なあいさつを受けながら学校内を進むと、古山健二監督(39)が待っていた。夏に向けたチームの取り組み、春から成長した選手などを聞くとお待ちかねの3枚看板との対面だ。3人と向かい合って取材をしていくうちに、2年生右腕の木村甲汰投手の人柄や雰囲気にのみ込まれた。先輩や私に対して、物おじせずに言葉をぶつける。憧れの選手を聞くと「横にいる先輩2人です」と笑いながら言うくらいの陽気さを見せていた。
話を進めていくと「足の手術を冬にしました」と教えてくれた。「1カ月で全力投球ができるようになりました」。この言葉を聞いたとき「回復力が早いな」くらいにしか思わず他の話に展開してしまったことをひどく後悔している。
後日、同校の練習試合に向かった。先輩記者の「高校野球はスタンド取材が基本」という教えを胸に、三塁側に陣取った紺のTシャツの集団に飛び込んだ。そこには木村の母千春さん(46)がいた。
力投する木村を横目に話を聞いていると、「命に関わる病気でした。世界で10人しかいない病気で…」とそれまで見せていたわが子を見守る笑顔が一変した。
母は「状況によっては、もう野球ができないと言われました」と声を震わせる。「本人も診察室で大泣きして。野球をやるために水商に来た意味がないって」と木村は取材時の笑顔とは裏腹に、野球人生の危機に涙を流していた。「5時間半の手術をうまくしてくれたおかげで、野球ができています。奇跡でした」。私はこの事実を知り、自分の鈍感さや観察力の低さにやるせなさを感じた。
「どんなに気丈に振る舞っていても、その裏には苦労や悲しみがある」とありきたりな言葉の意味を初めて理解した。大きな成功を収めるアスリートでも、必ずどこかで挫折を経験している。記者は、打った、打たないの結果を伝えるだけではなく、輝かしい栄光の背景を伝えていかねばならないと痛感した。高校野球取材で“木村君”に出会えたことを心のどこかに置きながら、記者人生を歩んでいければと思う。【村山玄】
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地方大会が開幕して1週間、私は悩んでいた。同期の記事が派手に紙面を飾る中、自分が担当する西東京の記事は連日端の方でちんまりしている。毎朝紙面を見るたびに、悔しさと自分のふがいなさを感じた。大きく載りたい一心で、スタンド取材に力を入れ始めた。「なんで記者になったんだ」と思われそうだが、自分から人に話しかけるのは得意ではない。自分を奮い立たせて、応援席にいる控え部員や選手の保護者に話を聞いて回った。
ある日の試合前、エース選手の情報を集めるべく応援席に向かった。控え部員の1人に声をかけると「いいっすよ!」と快く取材を引き受けてくれた。しかし、取材を進めるうちに彼の表情は曇り、口数も減っていった。「良いネタ聞き出せなかったな」と取材を切り上げようとしたその時。彼は「あいつ(エース選手)目当てか」と低い声でつぶやいた。そこで初めて、自分の無神経さに気がついた。「エースの子と仲いい?」から始まり「エースはどんな性格?」「エースはどんな練習してる?」など、質問の主語は全て「エース」だった。目の前の彼がどんな人間なのか、どんな思いで応援席に座っているのか、1度も聞こうとしなかった。「なんて失礼なことをしたんだろう」と頭が真っ白になり、謝罪後足早にスタンドを後にした。
その後も彼の言葉や表情が忘れられなかった。私自身、高校時代は陸上競技に取り組み、選手として取材を受けたことがある。自分の思いや頑張りを記事にしてもらえたことがうれしくて、それが記者を志すきっかけになった。彼も取材されると聞いて最初はうれしかったのかもしれない。「ネタが欲しい、紙面に大きく載りたい」という身勝手な思いが先行して、取材を受けてくれた相手の気持ちを考えられていなかった。
自己嫌悪を抱きながら、さらに1週間が過ぎた。迎えた準々決勝の朝、ある選手のお母様を取材した。幼い頃の話や野球を始めたきっかけ、高校入学後の成長など、たくさん話してくれた。選手本人にも以前取材していたので、その時の印象や「母親には本当に感謝している」と話していたことなどを伝えた。すると「そうだったのね。あなたと話せて楽しいわ」と笑いかけてくれた。うれしさとともに、以前ひどい取材をしてしまった彼のことを思い出した。もう1度彼に会うことができるなら、どんな思いで応援席のスタンドに立っていたのか聞かせてほしい。【玉利朱音】






