今となってはスケジュール表がむなしい。コロナ禍がなければ28日は倉敷マスカットスタジアムでDeNAとの試合が行われていたはずだった。
03年、星野阪神の優勝を知る虎党なら倉敷でのことは忘れていないだろう。若い世代も知ってほしい。あのシーズン、倉敷で2つの大きな出来事があった。
1つはなんと言っても7月8日の広島-阪神戦だ。今岡誠(当時)が広島ブロックから先頭打者本塁打。これで勢いがついた阪神は序盤に得点を重ね、8-4で広島を下す。この瞬間、優勝マジック「49」が点灯した。セ・リーグでの最速マジックだった。
もう1つ、星野阪神をある意味で象徴する試合も倉敷で行われた。6月3日の中日戦。このとき開幕から順調に勝ち星を伸ばしていた阪神だったが少しだけ暗雲が垂れ込めていた。
開幕から4番を任かせていた若き主砲・浜中おさむ(当時)が右肩を故障。主砲不在に陥っていた。ここでアイデアマンでもあった闘将は4番に当時37歳のベテラン八木裕を抜てきする。すでに「代打の神様」だったが理由があった。
それが倉敷である。星野は倉敷商出身、八木は岡山東商。地元での試合で思い切った起用にかけた。故郷に錦を飾るメンタルに期待したのだが、これが見事にはまる。八木は5打数4安打5打点の活躍を見せ、快勝につなげた。
このとき星野は「4番以上の4番や」と褒めたたえたが、喜んだのはその試合の結果だけではなかった。
03年は金本知憲、伊良部秀輝の大型補強に成功。補強で生まれ変わったチームととらえられがちだったが星野の思いは違った。
「阪神は生え抜きが頑張らなあかん。桧山とか今岡とか。八木もな。それでなければ補強した意味がないんや」。のちにそんな話をした。新戦力補強によって従来の選手の潜在能力を引き出す。星野の狙いはそこにあった。
17年がたっても熱い思いがあふれ出すあの日々。そこに倉敷での試合も確かにあった。今季、開幕できてもコロナ禍で地方球場での試合はなくなる方向だ。無観客開催ならどこでやっても同じことだが、やはり寂しい。
スッキリした気分で、日本中で野球が楽しめるときが来季以降、戻ってきてほしい。倉敷での幻の試合日程を見て、そう感じている。(敬称略)