「きかん坊」のヒグマたちが、聖地で目覚めた。1983年(昭58)センバツで甲子園デビューを果たした駒大岩見沢は、1回戦で、それまで初戦敗退がなかった野球王国、愛媛の今治西から勝利を収めた。試合序盤から主導権を渡さず、2ケタ安打、4-1で快勝した。2回戦の久留米商(福岡)戦でも打線が火を噴き、道勢18年ぶりの8強入り。「ヒグマ打線」の猛打は、一躍、全国の注目を浴びた。

 83年センバツの抽選会。春夏通じて初出場だった駒大岩見沢の猛者たちの闘志は、燃え上がった。対戦チームが決まると、相手の今治西から大歓声が上がったからだ。「下馬評は圧倒的に今治西。悔しかった」と50歳になった佐藤一也主将は振り返る。佐々木啓司監督(59=現クラーク監督)に言わせれば「きかん坊ばかりで一筋縄ではいかない連中」だった、血気盛んなヒグマの反骨心が、一気に目覚めた。

 迎えた1回戦。直前合宿で調整に失敗し「選手がどんな動きをするのか心配だった」という佐々木監督の不安は、杞憂(きゆう)に終わる。相手左腕は変化球主体で攻めてきた。「選手の振りが鈍くて、ちょうど良かったんだ」と謙遜するが、打って、打って13安打。かと思えば、6回には9番中原勝治のスクイズで貪欲に追加点を奪うのだから、相手は、たまらない。「サインを出したところで、中原がタイムを取ってベンチへ戻ってきてね。何だと思ったら、バットを替えて無言で打席に向かった」。奇妙な行動にあぜんとした監督だったが、実はスクイズしやすいように太いバットに替えた、大胆不敵な中原の判断だった。

 当時27歳だった青年監督は「ただ厳しいのではなく、何でも話せるフランクな雰囲気があった」と佐藤一也。グラウンド脇にあったトウモロコシ畑に水をまきながら、ケガをした選手には「続けていれば、いつか実がなる」と説いた。それが、中原だ。温かい指導のもと、選手たちは緊張感とは無縁のプラス思考を身につけ、聖地でも体現した。

 いち早く取り入れたウエートトレーニングで体を鍛え、冬場は小さなプレハブにこもって振り込んだ打撃は、2回戦の久留米商戦でも止まらず道勢18年ぶりの8強入りに貢献した。残塁数は気にしない。打者に余計なプレッシャーを与えるからと、エンドランを嫌った。春夏12度の甲子園出場を誇り、93年春には4強入り。昨年3月に閉校となったが、高校野球ファンの記憶から“ヒグマ打線”が消えることはない。(敬称略)【中島宙恵】

 ◆VTR 駒大岩見沢は2回、5番佐藤一也の左翼線二塁打を足がかりに、7番杉本の先制適時打で主導権を奪うと、3、5回にも小刻みに加点。6回には9番中原が投前にダメ押しのスクイズを決めるなど、硬軟自在の攻撃で、今治西の左腕を攻略した。エース大西は4安打1失点で完投。リードした佐藤一也は、打っても2二塁打を含む3安打2打点で、13安打した打線を引っ張った。

 ◆「ヒグマ」の秘密 駒大岩見沢の代名詞「ヒグマ」の文字が、日刊スポーツに初めて登場したのは83年3月31日、センバツ2回戦を報じた紙面だ。大会屈指の速球派、久留米商の山田武史(元巨人)から9安打を放って攻略し「久留米商ガブリ!」と見出しが躍った。

 この愛称、佐々木監督自身も大変、お気に入りだが「監督が無精ひげを生やして、熊みたいだったからじゃないか」と分析する。打力が弱いと「子熊やアライグマになるんだよ」。ちなみに、同大会では「やまびこ打線」の池田(徳島)が夏春連覇を達成している。