2004年(平16)夏、深紅の大優勝旗は白河関を飛び越えて、一気に津軽海峡を渡った。全国的にノーマークだった南北海道代表・駒大苫小牧が見せた、驚異の快進撃。優勝候補を次々と倒して迎えた決勝戦で、春夏連覇を狙った済美(愛媛)に毎回の20安打を浴びせ、13-10で勝利した。猛打の陰で徹底された守備。泥臭く野球に向き合ってきた無名の道産子たちに、栄冠は輝いた。
9回2死一、三塁。済美の4番鵜久森敦志(現日本ハム)を打席に迎えたところで、左翼を守っていた駒大苫小牧の原田勝也(29=現オール苫小牧)は「3ランを打たれて、同点になってもいいかな」と思った。歴史的瞬間を見ようと集まった観衆は5万2000人。地響きのような歓声の中、原田同様「まだ試合が続けばいいのに」と不思議な幸福感に包まれていた遊撃手、佐々木孝介主将(28=現駒大苫小牧監督)のところへ、北海道の歴史を変える最後の飛球が上がった。
“伊予の攻めだるま”と呼ばれた敵将をして「まるで(82~83年に夏春連覇した)池田(徳島)のようだった」と感嘆させた打撃で、壮絶な打ち合いを制した。その中で、当時の香田誉士史監督(44=現西部ガスコーチ)が「あのプレーは大きかった」と振り返るのが、5回の守備だった。
同点とされ、なお2死二塁で二塁打が飛び出し、原田から佐々木孝と7-6-2でつないで失点を防いだ連係プレーだ。「ノックでは常に送球タイムを計って、1秒でも縮めることを目指した。僕は肩が弱いけど、強肩の孝介に投げれば十分に間に合うと思った」と原田。攻守に徹底されたチームプレーは「お粗末な野球を何とかしたい」という香田の思いから始まった雪上での練習を経て、冬のハンディを克服した証しでもあった。
鬼のような練習中とは一変して、甲子園での香田は優しかった。凡退してベンチへ戻る選手には「次(ヒットが)出るから問題ない」と声をかけ、打てば「打ち方が良かったね」と褒めちぎった。監督に初勝利をプレゼントしたチームは一気に頂点まで上り詰め、翌年、さらに06年と3年連続で夏の決勝の舞台に進む。
原田の言葉が、印象的だ。「3年間のうち、僕らの代が一番弱かったんじゃないですか」。2連覇した05年には“サイクル男”の林裕也(現東芝)がいて、準優勝した06年には田中将大(現ヤンキース)という絶対的な柱がいた。では、04年はどうか。「前年の夏に降雨コールドで勝ち試合を落として、秋は全道決勝で鵡川に負けた。そこから、全勝にこだわって冬を過ごした」と佐々木孝。平凡を非凡に変えた道産子たちが、努力と執念で勝ち取った栄冠だった。(敬称略、おわり)【中島宙恵】
◆VTR 9-9で迎えた7回、駒大苫小牧は2死三塁から、佐々木孝、桑島の連続適時二塁打など4連打で3点を勝ち越し。1点返された直後の8回裏には、糸屋の中前適時打で1点加えた。両軍合わせて39安打23得点の乱打戦で、駒大苫小牧は無失策。2回途中からロングリリーフした鈴木は、味方の堅守にも助けられて粘投。9回2死満塁のピンチをしのいで、二転三転の試合を制した。
◆駒大苫小牧初優勝時の記録ラッシュ 04年夏に決勝で放った20安打は00年智弁和歌山(和歌山)と並ぶ決勝最多タイ記録。準々決勝の横浜(神奈川)戦では、林裕也(現東芝)が史上5人目のサイクル安打を達成した。
猛打の陰で、2、3回戦は岩田聖司、鈴木康仁の左腕2枚継投による2戦連続の毎回奪三振を記録しており、これは大会初。チーム打率4割4分8厘、糸屋義典の打率7割(4強以上、いずれも5試合)は、いまだに破られない最高打率で、記録ずくめの全国制覇となった。

