今年に入って、ボクシング界の明暗がくっきりとなった。

井上尚弥が世界中から絶賛され、脚光を浴びる。一方で田中恒成と田口良一の日本人新旧王者対決を除くと、残りの日本人世界戦10試合はすべて負けた。井上岳志が敵地で強打王者に健闘といえたが、唯一の防衛戦の伊藤雅雪を含めて完敗。7試合が海外と敵地の壁を痛感させられた。

長谷川、内山、山中と、長期防衛王者が近年相次いで引退した。それとともにテレビ局のボクシング離れ傾向が顕著になった。そのため、王者を日本に呼んで挑戦する資金力が不足する事態になり、海外で挑戦が増えることとなった。

関東開催は後楽園ホールだけで、令和初開催は黒田雅之の6年ぶり世界再挑戦だった。観客は1930人。最近は1000人を切る興行も多い中で熱気はあった。ジムのある川崎、黒田の出身地稲城の両市長らが観戦し、Jリーグ川崎Fサポーターの応援歌熱唱にキャラクターも参戦。tvkで生中継もされた。

黒田が所属の川崎新田ジム新田■世会長は、試合ギリギリまで場内を動き回っていた。地域密着を掲げ、10年にはジム名に川崎をつけ、さまざま活動している。13年の黒田の世界初挑戦は、地元川崎市のとどろきアリーナで実現した。

今回は再挑戦に会場は小さくなったが、精力的にPR活動を繰り広げた。師弟の母校訪問、川崎FにBリーグ川崎の試合でもPRし、盛大に壮行会も開催した。黒田も初挑戦時の3倍近いあいさつ回りに同行したという。

会長は87年の横浜国大2年時にプロデビュー。学生結婚で子供2人を抱え、6年で卒業後に4度目の挑戦で東洋太平洋バンタム級を制し、国立大卒で初の王者になった。引退後は家族で米留学、会社勤めもへて、03年に学生時代に住んだ登戸にジムを開いた。

インテリボクサー上がりの苦労人。選手にあった目標を定め、私生活も含めて親身に指導する。低迷していた黒田には「最後はオレが見る。墓場担当」と担当トレーナーになった。12年からは日本プロボクシング協会事務局長も務め、袴田事件支援の中心でもある。練習に顔を出すのは週2、3日と多忙も、18番目に入門した黒田にかけた再挑戦だった。

黒田は今後について「からっぽ」と言った。隣にいた会長が「プロモーターは引退します」とつぶやいたのが耳に残る。井上のようなきらびやかさとは無縁で、まさに手作り感覚の世界戦。今も師弟でお礼のあいさつ回りが続く。リングでは見えない世界戦の難しさ、大変さ。令和の新王者はいつになったら生まれるのかと心配になる。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)


※■は渉の歩の「、」を取る