野田聖子氏が出馬を断念し、安倍晋三首相の再選が、無投票で決まった自民党総裁選。表向きは無投票で決着したが、水面下では、出馬に必要な推薦人20人をめぐり、首相サイドと野田氏陣営による、激しい綱引きが告示直前まで繰り広げられ、最終的に野田氏は、必要な推薦人20人を確保することができなかった。
野田氏は8日、受付の開始と同時刻の午前8時から、出馬断念の会見をした。10分ほどで打ち切り、多くは語らずに議員会館を後にした。会見場では分からなかったが、エレベーターに乗り込んで向き合った野田氏の目は、うっすら赤らんでいたように感じた。
出馬できるか、できないか。自民党総裁選をめぐる「早朝のドラマ」は、以前にもあった。20年前の1995年9月、小泉純一郎元首相が初めて総裁選に挑戦し、橋本龍太郎氏に挑んだ時のことだ。
当時、推薦人は今より多い30人を集めなければ、スタートラインに立てなかった。告示3日前の9月7日には、「橋本氏一本化で無投票」の流れだった。小泉氏がずっと訴えていた郵政民営化への党内の反発が、ネックになっていた。それでも小泉氏陣営は「無投票」にはさせまいと巻き返した。2日後の告示前日の9日、小泉氏は「どうやら光が見えてきた。薄氷を踏む思いで努力する」と、かすかな自信を示した。
告示当日の10日。小泉氏の出馬会見は、受付の開始が1時間半後に迫る午前7時半に始まった。当時のメモを読み返すと、「確保の見通しが立ったのは午前1時」と書いていた。
会見で小泉氏は「違う意見を許さないという、自民党の最も悪い体質が出た」と訴え「『小泉つぶし』の圧力が強まるほど、出なければという思いが強まった」と、話していた。その上で、「かくなればかくなるものと知りながら やむにやまれず大和魂(こうすればこうなる、と分かっていても、やらずにいられないのが日本人の魂だ)」という吉田松陰の言葉に、自身の心情を投影させた。
小泉氏はその総裁選で橋本氏に敗れたが、3度目の挑戦で総裁に就任し、その後5年5カ月の長期政権を築いた。出馬への流れは異なったが、今回野田氏の総裁選出馬をめぐる流れに重なる部分も多かった。ただ決定的に違うことがある。 当時の会見で、小泉氏はこう、述べていた。「私の郵政民営化の主張には、(党内の)ほとんどの人が反対だ。しかし『話を聞こう』という、度量の広い人がいてくれた」。
出馬にこぎつけるか、断念に追い込まれるか。大きな違いを生んだのは、「話を聞こう」と腹をくくってくれた同僚議員が、いたか、いなかったか。20年前と今回の違いは、結局そこがポイントだった。

