「2代目五輪おじさんになる」。昨年3月、祖父である山田直稔(なおとし)さん(享年92)の葬儀の際、孫の藏之輔さん(13)は親族を前に宣言した。直稔さんは、1964年の東京オリンピック(五輪)から夏季五輪14大会を観戦し「平和と友好」を訴えた、初代五輪おじさんだった。藏之輔さんは直稔さんの遺志を引き継ぎ、8年後のロサンゼルス五輪で体操選手と五輪おじさんの「二刀流」を目指している。

直稔さんから受け継いだ応援セットを身につけ、ポーズを決める藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)
直稔さんから受け継いだ応援セットを身につけ、ポーズを決める藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)

■真剣なまなざし

直稔さんは、羽織はかまに金色のシルクハット、日の丸が書かれた扇子という独自のスタイルで、1964年の東京大会から52年間、夏季五輪14大会と98年長野冬季五輪を現地で応援した。藏之輔さんにとって「いつも笑っていて、感謝を大切にしている人だった」という直稔さんは、昨年3月に亡くなった。

大好きだった直稔さんとの別れに「めちゃくちゃショックだった」。同時に2代目を引き継ぐという、大きな決断をした。「祖父が今までやってきたことが、終わっちゃうのもかわいそうだと思った。誰かが続けなきゃと思って、お父さんでも良いが、より長く活動できる僕がやろうと考えた」。真剣なまなざしで引き継いだ理由を話した。

■はかま新調済み

直稔さんの応援は「自分が生きていることに感謝し、それを表していた」と感じる。4歳から始めた体操競技。小学4年の県大会で優勝した時「よくやった」と、大喜びしながら、写真を撮ってくれたことが思い出だという。藏之輔さんの応援団長でもあった。小学校の運動会では、おなじみの派手な格好で、本部席に座って応援してくれた。「すごく目立っていて、恥ずかしさはちょっとはあった」と、照れ笑いするが、今は感謝の思いでいっぱいだ。

はかまは、藏之輔さん用にすでに新調済みだが、応援グッズは基本的に直稔さんからそのまま引き継ぐ。「世界一強い選手でも、感謝の気持ちがなければ栄光はない」-。直稔さんの大切な言葉も胸にしまう。世界を飛び回るには語学が必須だが「祖父もあまり英語ができず、『言葉など無用であり、笑顔が全て』と言っていた。笑顔で通じ合えるんじゃないかなと思っている」と、いたずらっぽく笑う。

■「幸せの集まり」

直稔さんが愛した五輪は「平和、幸せの集まり」と認識する。16年リオ五輪後に直稔さんと「一緒に行こう」と約束した東京大会は、新型コロナウイルスの影響を受け来年に延期された。「五輪まであと1年という日から待っていた。それがまた『あと1年』になった」と、延期が決まった当時の気持ちを振り返った。コロナの収束は見通せないが、来年も「全世界から集まって、開催して欲しい」と願うのが本音だ。

直稔さんから受け継いだ旗を手に、写真に納まる藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)
直稔さんから受け継いだ旗を手に、写真に納まる藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)

2代目五輪おじさんとしては、東京大会が初陣になる予定。「声はあまり大きく出せなくても、扇子や旗を大きく振って、祖父みたいにできたらいいな」と、イメージトレーニングもばっちり。「コロナで世の中が落ち込んだ空気になっている。また元気を取り戻して、笑顔であふれる五輪になって欲しい」と、平和の祭典へ期待を込めた。

■夢は体操二刀流

藏之輔さんには「8年後のオリンピックに体操選手として出場し、団体で金メダル」という夢がある。週5日、土日は7時間にも及ぶ練習のために、都内から埼玉県まで通っている。アスリートとして「1度は出てみたい憧れの舞台であり、最大の目標」と話す五輪。8年後、選手として金メダルを獲得し、競技後、2代目五輪おじさんとして応援する「二刀流」を達成することが最大の夢だ。

「祖父を超えたい」-。直稔さんの14大会を超える、夏季五輪15大会以上の応援を誓った。五輪だけでない、さまざまな競技の世界大会にも行きたいと話し「2代目五輪おじさん兼、初代スポーツ応援おじさんになりたい」と、輝いた目で語った。

直稔さんから受け継いだ扇子には、観戦した五輪開催地の名が書かれており、「東京」の文字もすでに刻まれている。4年後の「パリ」以降、藏之輔さんの字で、刻まれ続けるだろう。【佐藤勝亮】

◆山田藏之輔(やまだ・くらのすけ)2006年(平18)12月14日、東京都生まれ。赤穂浪士の討ち入りの日に生まれた孫に、大石内蔵助からとって直稔さんが「藏之輔」と命名。跳び箱が好きになり4歳で体操を始め、小学4年で埼玉県大会で団体優勝する。得意種目は床とあん馬。自粛期間で取得した特技は、千羽鶴を折ることとパンケーキやクッキー作り。

直稔さんから受け継いだ応援セットを身につけ、応援の練習をする藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)
直稔さんから受け継いだ応援セットを身につけ、応援の練習をする藏之輔さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)

■アメリカに行ってみたい

これまで海外に行ったことがないという藏之輔さんは、五輪おじさんとして訪れてみたい国の1位に米国を挙げた。「料理がおいしそう。ホットドッグを食べてみたい。アメリカは世界の中心というイメージでにぎわってそう」。2位にランクインしたのはシンガポール。「きれいで、発展してそうなイメージ。マーライオンの場所で写真を撮りたい」と話した。

■チケット争奪戦も

来年の東京五輪で、五輪おじさんデビューを狙う藏之輔さんには「チケット争奪戦」という大きな壁が立ちはだかっている。両親と5人姉弟、計7人家族の山田家は、女子バレー3位決定戦のチケット4枚が当選した。つまり、3人は観戦できない。さらに、藏之輔さん以外の4姉弟は全員バレー経験者と、1歩出遅れ気味だ。藏之輔さんは「自分の大会とかぶらなければ、何が何でも行きたい。譲る気は全くない」と、すでにファイティングポーズを取っている。


<山田直稔さんの五輪軌跡>

(1)1964年東京大会 初めて生でオリンピック観戦。

(2)68年メキシコシティー大会 「日本人」をアピールしながら応援しようと、羽織はかまと日の丸の旗を持参。

(3)72年ミュンヘン大会 この五輪を境に、主催国の国旗を持って応援することを決める。

(4)76年モントリオール大会 女子バレーボール決勝(日本VSソ連)で、副審に「タッチネット」とアピールし判定を覆す。日本の優勝を後押し。

(5)80年モスクワ大会 日本不参加。五輪の意義に反した結論に納得がいかず、単身で「平和と友好」を訴えるため現地で応援。

(6)84年ロサンゼルス大会 世界新を更新した陸上3段跳びのウィリー・バンクス(米国)と親交を深める。

「五輪おじさん」山田直稔さんの応援の軌跡
「五輪おじさん」山田直稔さんの応援の軌跡

(7)88年ソウル大会 応援の力でレスリング4個のメダル獲得に導く。

(8)92年バルセロナ大会 前大会での応援をレスリングの審判たちが覚えており、友好的交流。

(9)96年アトランタ大会 野球決勝(日本VSキューバ)でアメリカ国旗を持って応援、米国人を味方につけることに成功。大善戦へ導いた。

(10)98年長野大会 当時の長野市長にセレモニーで「日本の国技である相撲を取り入れてみたらどうか」と提案。ハワイ出身の曙がパフォーマンスし、世界中から称賛を浴びた。

(11)2000年シドニー大会 柔道の田村亮子の誕生日に激励メッセージを送る。結果、田村は悲願の金メダル。

(12)04年アテネ大会 ハンマー投げの室伏広治が、他選手のドーピングで金メダルに繰り上がり。後日行われた授与式で、多国籍の日本応援団を作り盛り上げた。

(13)08年北京大会 町中の中国人から大人気。反日運動のイメージだったが、多くの中国人と写真を撮った。

扇子には、これまで応援に行った地名と、来年に延期された「東京」が直稔さんの字で刻まれている(撮影・佐藤勝亮)
扇子には、これまで応援に行った地名と、来年に延期された「東京」が直稔さんの字で刻まれている(撮影・佐藤勝亮)

(14)12年ロンドン大会 これまでのトレンドと違い、商業的な感じや国の宣伝をあまり感じさせず、開会式もウイットに富み世界中の人が快く楽しめる内容だった。

(15)16年リオデジャネイロ大会 当時90歳になるため、体力管理に加え安全確保が難しいと周囲から止められリオ行きを断念。しかし、日本で試合を見ているうちに「応援現地で死ぬようなことがあってもそれは本望」と決意し、リオ行きを決断。無事帰国し、夏季五輪通算14大会応援という偉業を成し遂げた。

◆山田直稔(やまだ・なおとし)1926年(大15)4月16日、富山県生まれ。日大工学部卒後、60年にワイヤロープ加工販売などを手がける会社を設立。64年東京大会から、2016年リオ大会まで夏季14大会、長野冬季大会を現地で応援。19年3月9日、心不全のため92歳で死去。亡くなった際には、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長もツイッターで「1964年の東京大会から全ての五輪を見てきた真のスーパーファンだった。来年の東京五輪に彼がいないことをみんな寂しく思うだろう」と追悼した。