アトランタ・オリンピック(五輪)の予選リーグが、野球人生で一番緊張しました。杉浦正則さんという大投手がいて、いろいろ聞いてはいたのですが、聞くのと自分が経験するのは大違い。地に足が着いてない感じでした。あれ以上の緊張感は、プロでもなかったです。開幕投手や日本シリーズも経験しましたが、あれに比べれば、そんなに大したことじゃないというか。

先発した初登板のオーストラリア戦(6-9で敗戦)で打ちこまれ、予選リーグ敗退の危機まで追い込まれました。すごく責任を感じました。多少は国際大会の経験があったのですが、五輪は特別でした。それでも川島勝司監督が使い続けてくれました。今、コーチになってみると、器の大きさを感じますね。権藤博さん(横浜元監督)もですが、信じた選手を使うという考え方は、参考にさせてもらっています。

準決勝の米国戦(11-2)は、杉浦さんから直接つないでもらいました(3回1/3で無失点)。1度オーストラリアにやられて、プレッシャーを全部置いてきた。振り切って投げられたというか。金属バットだったので、詰まらせようとか泳がせようとかではなく、バットに当てさせないと考えていました。ウイニングショットはフォークボール。実はフォークを投げ出したのは、社会人に入ってから。当時の社会人野球は金属バットだったので、本当に鍛えられた。米国戦だからではなく、金属バット相手に生き残っていくために身に付けた技でした。

学生時代は、ほぼカーブと真っすぐしか投げていませんでした。当時の捕手大久保秀昭さんに「その球種だけでは。何とかならないか」と言われて、フォークを投げ始めた記憶があります。

決勝のキューバ戦(9-13)は忘れたい過去ですね。当時のキューバは世界一のチームだったと思います。打力が素晴らしかった。リナレスにカーブを打たれたのは今でも覚えてます。あとはキューバの遊撃手。肩の強さ、しなやかさ、スナップスローなどをよく覚えています。

私が出た大会は、アマチュア選手だけで出場した最後の五輪でした。賛否あるとは思いますが、プロの選手が出る今の五輪とは違うもののような気がしています。プロの選手は今、WBCなどの大会があるので、オリンピックはアマチュアに残してあげてほしかった、という思いも少しあります。(347人目)