プロボクシング元WBC世界ライト世界王者のガッツ石松さん(73)は、第2の人生でも人気タレント、俳優として成功を収めた。

ボクサー時代は11度の敗戦を糧にして世界王座を奪取。5度防衛に成功して、1970年代に一世を風靡(ふうび)した。

引退後はNHK連続テレビ小説『おしん』などでの演技が高く評価され、1980年代以降に個性派俳優として確固たる地位を築いた。

なぜボクシングと芸能界という、まったく異なる2つの世界で頂に立つことができたのか。世界王座奪取から49年となった今年4月、都内でご本人にじっくりと話を聞いた。昨年6月の取材時の証言も合わせて、挫折と栄光が交差した波瀾(はらん)万丈の半生を『ガッツ石松という伝説』と題して連載する。第4回は「点滴に魔法の言葉、バケツにつば、戦い抜いた栄光の2年1カ月」。

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世界タイトルは「獲得するより防衛する方が難しい」と言われる。

長年の夢を実現させて、名誉もお金も手にした後、再び修行僧のような生活を続けるのは容易ではない。一方で飢えた挑戦者たちが、王者のボクシングを徹底研究してベルトを奪いにくるからだ。

特にスポーツ界に“世界一”が希少だった昭和の時代、プロボクシングの世界王者は国民的ヒーロー。常に動向が注目され、期待と羨望(せんぼう)の的になった。行く先々でチヤホヤされ、無意識のうちに心の隙ができたりもする。

ガッツ石松も世界王座奪取から5カ月後の1974年(昭49)9月12日、挑戦者チュリー・ピネダ(メキシコ)との初防衛戦(愛知県体育館)で調整に失敗し、あわやの大苦戦を強いられた。

「試合の2日前にオープンカーに乗って名古屋市内をパレードして風邪をひいてね。点滴を打ってリングに上がった。体が動かなくて、いつもの馬力もなかった。スタミナも続かなくて、長年の経験で足を使って何とか15ラウンドを乗り切った。結果は引き分けで辛うじて初防衛に成功。運があったよね」。

2度目の防衛戦は苦闘の初防衛からわずか2カ月後の11月28日、大阪府立体育会館で前王者ロドルフォ・ゴンザレスとの再戦が決まった。

「初戦で勝っていたから同じ戦い方をすればいいという楽観的なところがあったね。たとえ相手が自分を研究してきたって、鉄のカブトをかぶってくるわけじゃないからね」。

予想以上にゴンザレスは王者の強打を警戒し、研究してきた。ポイントは11回まで前王者がリード。12回開始前に「“左を出せ”“足を使え”と大声で言ってくれ」とガッツ石松がセコンドに要求すると、専属トレーナーのエディ・タウンゼント氏が耳元で怒鳴った。「何言ってるの、石松、負けてるの。これケンカよ。石松、ケンカ得意でしょう。ぶっ飛ばすの!」。“ケンカ”という魔法の言葉に目が覚めた王者は、12回のゴングと同時に飛び出し、一気の連打で挑戦者を倒し、苦闘にけりをつけた。

「エディさんのワンポイントの指示が本当に的確ですごかった。自分は夢中で戦っているから分からないけど、ここぞという時にワンポイントのゲキが飛んでくる。だから目が覚めるというか、“よし”と発奮してね。ラーメンにコショウを入れるようなもので味が調うの。エディさんは選手の癖や性格を全部分かっている。いいところも悪いところも。減量中や合宿中でも、エディさんの片言の日本語に救われたよね」。

3度目の防衛戦で世界的にも評価の高かった元世界王者ケン・ブキャナン(英国)を判定で下すと、4度目の防衛戦では初防衛戦で引き分けていたピネダを、今度は文句なしの判定で返り討ちにした。

実はガッツ石松はリターンマッチにめっぽう強かった。当時、11敗を喫していたが、6人とリターンマッチを戦って不敗。キャリア序盤に再戦で2度引き分けているが、その後は4戦全勝。いずれも完勝で決着をつけていた。

「研究心もあるけど一番は気持ち。子どもの頃から負けたりすると、Why!、なぜ! って考える性分でね。同じ屈辱は受けないぞって。だから『ガッツ』っていうんだよね。試合でも負けたり苦戦したりすると真剣に反省して、なぜ失敗したかを考え抜く。夜1人になった時とかに。そうすると見えてくるものがある。だから2度目は1本芯が通った試合ができたんだと思うね」。

順調に防衛を重ねたが、この頃から挑戦者と戦う前に、減量という難敵との戦いが限界を迎えつつあった。ライト級のリミットは61・2キロだが、試合のない時期は80キロまで体重が増えた。軽量級よりもパワーや体力が必要とされる階級。普段から節制をして体重を管理するということはしなかった。体も大きくなっていた。

「世界王者になった当初は問題なかったけど、後半は18~19キロくらい減量したね。試合がない時は節制なんて気にせずに、好きなもの食べていたからね。減量中の練習は苦しくてね。最後は絞って何も出ないノリタオルみたいで、もうフラフラして歩いているんだけどね。おしっこも出ないから、夜通しバケツにつばを吐いたりして一晩で700~800グラム落とした。それでも計量でオーバーしたことは1度もなかった。だってプロだから」。

約2カ月で20キロ近く体重を落として、15ラウンドを戦い抜く。無謀ともいえる減量は、普通の人なら命の危険すらある。しかし、ガッツ石松はリングの上で減量苦をまったく感じさせなかった。18キロの減量を乗り越えて臨んだ5度目の防衛戦は、終始王者ペース。最後はパワーの違いを見せつけた。14回に右アッパー1発でアルバ・ロハス(コスタリカ)を眠らせた。

「自分は人よりも回復力があった。当時は試合当日の朝の計量だったけど、不思議とリングに上がるころには体力が回復していた。61・2キロしかないから体も軽くてね。そんな体質も世界チャンピオンになった1つの素地じゃないかと思うね」。

それでも限界が近いことは、本人も分かっていた。試合後、1階級上のジュニアウエルター級(現スーパーライト級)への転向を宣言した。しかし、結局5カ月後の1976年5月8日、敵地プエルトリコでエステバン・デ・ヘススとの6度目の防衛戦が決まった。

この試合の王者のファイトマネーは日本円で6000万円。ガッツ石松は世界でそれだけ高く評価されていた。

挑戦者は、ガッツ石松が2度目の世界挑戦でKO負けし、後に4階級を制覇する名王者ロベルト・デュラン(パナマ)に初黒星をつけている強敵だった。しかも、20キロ近い減量に加えて、完全アウェー、過去に海外で防衛に成功した日本人世界王者は1人もいない。さらに、それ以上に王者には決定的なマイナス材料があった。

「いろんな問題があってエディさんがプエルトリコに来られなくてね。リングに上がってヘススのセコンドを見たら、あのムハマド・アリ(当時の世界ヘビー級王者)のトレーナーのアンジェロ・ダンディーがいたの。自分はアリを尊敬していて、ダンディーもすごいトレーナーだと思っていたから、何だか気後れしたんだよね。エディさんがいたらまた結果も違っていたと思う」。

試合は終始挑戦者のペースで0-3の判定負けに終わった。あの“大番狂わせ”と言われた世界王座奪取から2年1カ月がたっていた。

77年4月2日に、1階級上のWBC世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト級)王者センサク・ムアンスリン(タイ)に挑戦したが、6回KO負け。翌78年6月20日に再起戦に判定負けすると、引退を表明した。通算戦績51戦31勝(17KO)14敗6分け。

リングに別れを告げた。世界王者の看板とガッツ石松の知名度があれば、第2の人生でジム経営や指導者としてボクシング界の日の当たる道を歩む選択肢もあった。しかし、ガッツ石松はあえて元世界チャンピオンの威光などまったく通用しない、厳しい別世界へのチャレンジを決意する。【首藤正徳】(第5回に続く)(敬称略)

◆ガッツ石松(いしまつ)本名・鈴木有二(すずき・ゆうじ)。1949年(昭24)6月5日、栃木県粟野町(現鹿沼市)生まれ。66年12月プロデビュー。72年東洋ライト級王座獲得。74年にWBC世界ライト級王座獲得。5度防衛。戦績は31勝(17KO)14敗6分け。79年に引退後は個性派俳優として活躍。NHK朝ドラ「おしん」や米映画「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などでハリウッドにも進出。08年に鹿沼市民栄誉賞受賞。流行語になった「OK牧場」などユニークな語録でも知られる。