「そんなに甘いもんじゃねえんだよ」-。斉藤仁さんの声が、天国から聞こえたような気がした。12日に行われた柔道世界選手権の100キロ超級。斉藤立は決勝で反則負けを喫して、親子2代優勝を逃した。初出場の20歳は決勝まで勝ち進んだが、最後に「世界一」を意識したのか消極的になった。
9年前、小学生だった斉藤は、すでに圧倒的な強さを誇っていた。五輪2大会連続金メダリストの父仁さんは、当時全日本柔道連盟の強化委員長。将来有望な小学生を集めた合宿で、親子並んでの写真を頼んだ。照れて嫌がっていた仁さんは「1枚だけだからな」と言って、息子とともに最高の笑顔をみせていた。
「東京も狙えるんじゃないの?」。開催が決まったばかりの東京五輪に向けて聞いてみた。「そりゃ、無理よ。時間がなさすぎる」と首を振られた。父の頃は国内選考さえ通れば、五輪に出場できた。直前に飛躍した選手にもチャンスはあったが、現在は国際柔道連盟(IJF)ランキングが必要。国内で勝っても、五輪への道は開けない。
五輪出場資格を決めるIJFランキングは、直近2年の国際大会での獲得ポイントによる。「1、2年前には世界に出ないと」と言った仁さんは「東京の次だな」と続けた。今思えば、その時には24年五輪を狙う青写真ができていた。
もっとも、仁さん自身は息子に期待しながらも厳しい道のりであることを意識していた。「じゃあ、東京の次で金メダルだな」と水を向けると、少し怒ったような表情で「そんなに甘いもんじゃねえんだよ」。仁さんが言うからこそ、その言葉は重かった。
仁さん自身の柔道人生も甘くはなかった。同世代に最強のライバル山下泰裕がいたとはいえ、初めての世界選手権優勝こそ国士舘大卒業直後の22歳だったが、全日本王者になったのは27歳だった。ケガもあって、ともに優勝は1回ずつ。五輪2大会連続金メダリストとはいえ、決して順風満帆に結果を残し続けていたわけではない。
斉藤はまだ大学3年生の20歳。仁さんより7年も早く全日本王者になり、2年早く世界に出た。決勝で敗れて悔しさを隠さなかったが、父親はその何倍、何十倍も悔しい思い、情けない思いを繰り返してきたに違いない。それを乗り越えたからこその五輪連覇。伝説は、簡単にはできない。
柔道着の袖で汗をぬぐう姿、時折かしげる首、畳の上でのしぐさは仁さんを見ているようだった。ただ、違うのは体からにじみ出る気迫。満身創痍(そうい)で満足な技もかけられず、前に出るだけだった88年のソウル五輪。それでも、仁さんは気迫で金メダルを手にした。
まだ20歳、父のような柔道家になるためには、もっともっと悔しさや悲しさ、つらさを味わうことだ。仁さんは、そうやって強くなっていった。「そんなに甘いもんじゃない」ことを忘れなければ、この日の銀メダルが金メダルに変わる日が必ず来る。【荻島弘一】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「OGGIのOh! Olympic」)










