色あせぬ煌めき

中野友加里のスピン原点はバイウルが演じた「黒鳥」

日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、最も心を動かされた演技を振り返る連載「色あせぬ煌(きら)めき」。第6回は00年代に国際舞台で活躍した中野友加里さん(34)。

女子3人目のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)成功者でもあるが、世界一美しいと言われた「ドーナツスピン」も代名詞だった。その原点とは-。94年リレハンメル五輪のテクニカルプログラム(現在のショートプログラム)、その大会で金メダリストとなるオクサナ・バイウル(ウクライナ)との出合いが始まりだった。

09年10月、ジャパン・オープンで新プログラムを初披露した中野友加里
09年10月、ジャパン・オープンで新プログラムを初披露した中野友加里

その切望が未来につながった。

「あの人になりたい! あのスピンをやりたい!」。

ブラウン管を通してノルウェーから届く生中継を食い入るように見た。

フィギュアスケート界最大のスキャンダルともされる「ナンシー・ケリガン襲撃事件」の当事者、ケリガンとトーニャ・ハーディングの報道一色のなか、小3の中野さんをくぎ付けにしたのは、16歳のバイウルだった。

前年度、彗星(すいせい)のごとくシニア戦線に舞い降り、世界選手権まで制した「氷上のプリマドンナ」。際立つ黒一色の衣装をまとい、チャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」の調べに乗り、「黒鳥」となるべく四肢を動かし始める。指先まで繊細に制御された流麗な動きに目を見張ると、その時はやってきた。

「小さいながらも見ていて、真っ白な氷の上で本当に黒い鳥がいるような感じがしました」。

演技が中盤に入る頃だった片脚を上げ、体を氷と平行にし、「T」の形にしてスピンを始める。ただ、そこからが違った。そのまま背中を反らし、手で足をつかんで回り始めた。その姿は、一本足で立つ黒鳥そのものだった。

「もともと、バイウルさん自体が手先までしなやかな演技で、まさに芸術を兼ね備えたスケーターそのものだったと思うので、すごい、子どもながらにインパクトを残した演技でした」。

理想のスケーターを見つけた。翌日からどうやったら鳥に見えるのか、リンクで試行錯誤が始まった。録画したVHSを見ては、バイウルになろうと試みた。自宅から練習拠点の名古屋市内の大須リンクまでは車で1時間、行きも帰りも車内のビデオデッキを回しながら考え続けた。それほど魅了された。

技自体はすぐにできるようになった。小3から試合にも取り入れていた。ただ、それはまだ、「ドーナツスピン」という名称は得ていなかった。

「当時は上から撮るカメラもなかったので、横から見ないといけなかったんです。なので、そうすると鳥ですよね。でも最初のころの私のスピンは汚くて、母からは『あなたはガチョウね』と言われてました(笑い)」。

「バイウルスピン」という通称の方が流通していた。それが「ドーナツ」になったのは、映像技術の発展によるもの、さらに日本では中野さんの存在が大きかった。ジュニア時代から組み込むそのスピンは、どんどん改良されていった。

「できるようになったら見た目が大事。まずは柔軟性が問われる形なので、回れるところから。次は美しさを求めて、その次は速さを求める。で、速さの勉強をしたのが佐藤信夫先生のところです。回る位置、角度、手の持ち方、重心の位置でも回転速度が変わるんだなと」。

他のスピンの形よりも空気抵抗が大きく、速さを追求するには繊細な技術が必要だった。向上につれ、ジャッジからの評価もあがり、唯一無二の武器になっていった。浅田真央の登場で国内ではフィギュア界が盛り上がりを見せ始めた頃。トリプルアクセルのような専門用語が広く知られ始め、その中に中野友加里=「ドーナツスピン」という言葉も含まれた。「世界一美しい」の枕ことばとともに。

10年3月に引退後は、テレビ局勤務などをへて、競技との関わり合いは続いている。地方大会などに携われるB級審判資格を取得し、全日本選手権の審判が出来るN級審判資格取得を将来の目標にする。

「バイウルさんが私だけでなく、後世のスケーターたちに継承してくれたものですよね」。

ジャッジ席から、鳥のように、ドーナツのように回る選手の演技を見守るのを楽しみにしている。【阿部健吾】

94年2月、リレハンメル冬季五輪の女子フィギュアスケートSPの演技をするオクサナ・バイウル(ゲッティ=共同)
94年2月、リレハンメル冬季五輪の女子フィギュアスケートSPの演技をするオクサナ・バイウル(ゲッティ=共同)

◆オクサナ・バイウル 1977年11月17日、ウクライナ生まれ。3歳でフィギュアを始め、同じウクライナ出身でアルベールビル五輪男子金メダルのペトレンコの支援を受けて急成長した。93年1月の欧州選手権で2位になり、同3月の世界選手権を15歳で制覇。クラシックバレエを基調とした優雅な演技を持ち味にした。リレハンメル五輪ではフリーの前に接触で脚を負傷しながらも「マイフェアレディ」の曲を笑顔で演じた。金獲得後のエキシビションの「瀕死(ひんし)の白鳥」を最後にプロに転向し、米国へ移住した。

◆中野友加里(なかの・ゆかり)1985年(昭60)8月25日、愛知・江南市生まれ。椙山女学園高-早大-早大大学院。6歳でスケートを始め、00年全日本ジュニア選手権優勝。02年世界ジュニア選手権銀。05年のNHK杯優勝、GPファイナル3位でブレークし、世界選手権には06年から3年連続で出場して最高は07年の4位。09-10年シーズンで現役を引退し、10年4月にフジテレビに入社、19年に退社した。審判員、解説者としても活躍し、現在は二児の母でもある。著書に「トップスケーターの流儀 中野友加里が聞く9人のリアルストーリー」がある。

日本の歴史を刻んできたフィギュアスケーターや指導者が、過去に最も心を動かされた演技を振り返る連載です。名選手、名コーチ、競技発展に尽力してきた功労者の今なお色あせぬ記憶を通じて、氷上の煌めきをファンの皆さまと共有できればと思います。

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